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児相35日目。「”親ガチャ”がない場所」

 彼はここで誕生日を迎えた。誕生日前に

「先に言っておくわ〜。誕生日おめでとう」

「あざっす!」

という会話と、誕生日後の今日に

「誕生日おめでとうございましたーやね」

「ありがとうございましたー!笑」

という会話をした。

 この世に生まれてからどんな生き方になるのか?というのは運でしかない。最近はSNS上でそれを”親ガチャ”というファッショナブルな言葉で見事に表現されていたけど、おそらくここでは”親ガチャ”なんか存在しなくて、なぜなら運なのかなんなのか知ろうとすることよりも、親ガチャに当たったかどうかなんかを考えることよりも「ここをいつ出られるんだろう」というただ目の前のことに漠然とした不安しかないからだ。つまり”親ガチャ”がどうとか考える以前の問題であって、やっぱりその言葉は街中にふわっと浮いたファッションのようなものだと感じる。

 置いてある漫画を読み尽くした彼は最近、ボードゲームやカードゲームで楽しむようになった。今日はUNOをしながら笑い合った。BGMのように流れるテレビCMがNintendo Switchを広告すると、ゲームへの欲求を語ってくれる。ただここにはテレビゲームはないしスマートフォンももちろんない。

 欲求のほとんどを制限されている彼は、その制限の中で最大限の自由を利用する。僕たち人間が関節可動域の制限の中で自由に体を動かすように、ここの制限を利用しながら最大限の自由を作る。そのお手伝いをしているのが僕の役目。やっぱりここには親ガチャなんかなくて、ここでの価値はむしろ親ガチャに当たっているのかもしれない。だって、他では経験できないことをしているし、UNOをしながら楽しく笑い合えたし、美味しいご飯を10分でぺろっと食べたし。将来、いつかここでのことを笑い話にしていたら確実にそのガチャは当たりだ。

 人間、今のこの状態は偶然でしかない。努力して改善できるもの以外は運でしかない。親がどうとか、生まれそだった環境がどうとかは嘆いたって変わることは決してない。できることといえば、自由を獲得するために、不自由に飛び込むことだと思う。因果のない不都合なところに無理に飛び込むことで自由を獲得しやすくなる。誕生日を迎えて今はここにいるけど、こうやって不都合の中から何かを見つけていくことで、自分の人生に納得感を得られるはずだ。

 彼があと何日ここにいるかはわからないけど、彼のその時がいつも前向きなものになるように明日も話をしたいなって思う。

 

いつも読んでくださりありがとうございます。いろんなフィードバックがあって初めて自分と向き合える。自分を確認できる。 サポートしていただくことでさらに向き合えることができることに感謝です。