穏やかな殺人(前編)
闇の中、突然、意識が覚醒した。瞼が重くて、目を開けるのが億劫だ。嫌な夢を見ていたような気がするけれど、それがどんなものであったのかは思い出せない。
後頭部のあたりに鈍痛を感じる。数分前、いや、十数分? 夢の中をさまよっている間中、痛みの波に揉まれていたような気がする。もしかしたら、これは数十分以上に渡ってわたしの脳内を犯し続けているのかもしれない。
瞼を引き剥がすようにして目を開ける。ぼやけた視界の中に、やわらかい光が入ってくる。何度かまばたきをしたところで、レンズの曇りが取れたように視界が晴れた。
「ああ、気がついた?」
上の方から見覚えのある顔が覗き込んできた。記憶の糸を辿ろうとしたが、脳内に霧がかかっていて、手がかりすらつかめない。
「ごめんなさい、わたし」
両手をついてベッドの上に上半身を起こす。身体を動かしたせいか、途端に頭痛が重くなった。思わず片手で頭をおさえる。
「待ってて、水を持ってくるから」
男は落ち着いた口調でそう言い置いて、私の側を離れた。
グラスが触れ合う涼やかな音を聞き流しながら、部屋の中を見回す。間取り自体はごくありふれたワンルームだが、壁がコンクリートの打ちっぱなしになっているせいか、全体的に無機質な感じがする。調度品も、メタルラックやガラスのテーブルといった冷たい印象を与えるものが多い。
どんなに思い出そうとしても、自分がこの部屋にいる理由がわからなかった。昨日はたしか王子にあるイタリアンバーで一人酒をしていたはずだ。もしかして、また酔いつぶれてしまったのだろうか。ここ一カ月、飲みに出かけては正体をなくして知らない男の部屋で目を覚ます、ということを幾度も繰り返していた。痛い目に遭う前にやめようと思っているのにコントロールが利かない。三十歳の誕生日を目前に、四年半付き合った恋人に振られて以来、自分でもどうかと思うくらい自暴自棄になっていた。
ここから先は
¥ 100
いつもサポートありがとうございます。 『この世界の余白』としての生をまっとうするための資金にさせていただきます。