理解は可能で、理解することは不可能
宮崎鈴子さんのライブ動画「共感と理解論」を視聴して、私も自分なりに「共感と理解」について考えてみたので、それについてまとめてみたい。(動画を観るのが面倒な人は、noteの記事にわかりやすくまとめられているのでそちらをどうぞ)
上でリンクを張った動画の中に、
「共感とは、たまたま感じるものが重なった、感じるものが似ている、という状態」
という話が出てくる。
それにヒントを得て、共感は「する」ものではなく偶然「起こる」もの、つまり自然発生的なものだという感覚に辿りついた。
では、理解の方は能動的なのだろうか?
単純に考えればそうなるのかもしれないが、私はどうもそうは思えない。
ここで思い出されるのは、山崎ナオコーラさんの著書『カツラ美容室別室』の中に出てくるこちらの表現。
理解は不可能で、誤解だけが可能。知らないということを深めたくて、心を覗くのだ。
私自身は「わかってもらえない」という感覚と「わかってくれている」という感覚の両方を体験してきているので、不可能とまでは思わないけれど、理解できることの方が圧倒的に少ないだろうなとは思っている。
たとえできたとしても、それはほんの一部の話で、人間をまるごと理解するなんて不可能だろう。
ところで、私はこれまで「理解はできるけど共感はできない」と思うことはあっても、「共感はできても理解はできない」と思ったことはない。
このことから、理解は共感の中に含まれているというイメージを持っている。
ふとした瞬間に起こる共感を重ねることで、相手という存在が少しずつ自分の中に蓄積されていき、それが理解へと繋がっていく。
こんなふうに考えると、理解も元を辿れば「偶然起こるもの」ということになる。
だから、理解は可能だけど、能動的な意味での「理解すること」は不可能なんじゃなかろうか。
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