「退屈してる」って、言えなかった。
わたしには、自分が退屈していることを隠す癖がある。無気力で何もしたくない時でも、つまらないと思いながら本を読んでいたり、気が乗らないのに創作をしていたりすることが多い。
「楽しい?」って聞かれたら、「楽しいよ」って明るい声で返すけど、内心、退屈していることがバレないかと不安になってる。
どうせバレてるんだけどね。
いつもじゃないけど、そういう時が多い。隠そうとして無理をして、たぶん余計に悪化させてる。
借金と病気は隠すなって言うけど、わたしはそこに退屈もプラスしたい。
ただ、ひとこと、「退屈してる」って言えたら、一緒に楽しめることを考えてくれる人や遊びに誘ってくれる人、話そうって言ってくれる人などなど、きっと、いろんな人が声をかけてくれる。
一人で退屈を飲み込んで、つまらないことにエネルギーを浪費し続けるよりも、ずっと早く退屈から抜け出せるだろう。
もし誰からも反応がなかったとしても、退屈していないフリをするよりも気分的には楽になれるはず。
そんなわけで、これからは退屈になったら「退屈してる」って外側に発信しようと思ったわけだけど、それをするために、まず、なんで今まで素直に「退屈してる」って言えなかったのかを考えてみたい。
「退屈してる」が言えなかった理由
退屈におちいっている時、わたしの頭の中ではこんな言葉が繰り返されている。
「退屈してるくらいなら働いて少しでも人の役に立て」
「退屈できる時間と余裕があって羨ましいわ」
「退屈してるならこれやっといて」
無意識のうちに、『退屈していることがバレたら、無理やり働かされたり、妬まれたり、何か嫌なことを押し付けられたりする』と思い込んでるらしい。よくあるパターンだけど、罪悪感だ。
それから、『つまらない人間だと思われる』という恐怖もある。つまらないと思われたら人が離れていってしまう、と。
退屈な時くらい周りに楽しませてもらえばいい
書きながら、これも受け取り下手ってことになるんだろうなと思った。退屈している時の自分は、人と関わったとしても一方的に受け取るだけになりそうで、迂闊に他人に近づけない、みたいな。
24時間365日退屈しているなら別として、たまに退屈になったら時くらい、一方的に楽しませてもらってもいいよね。
ていうか、退屈していない時でも、一方的に受け取ってることなんて、きっとたくさんある。そして、そんな時でも、実際は一方的になんてなり得ない。反応、あるいは無反応、受け取るという行為そのもの、一方的に与えるという体験などなど、何かしら与えてる。
まとめ
次、退屈で死にそうになったら、いや、死にそうになる前に「退屈だー」って言うからな。あきらかに退屈そうなのに楽しそうなフリしてるなって思ったらツッコミを入れるんだぞ……!
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