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シェイクスピア参上にて候第八章(一)


第八章 悲鳴を上げるギリシア

(一) ギリシアはなぜ難しくなるのか
 
岩倉隆盛さんとジェイムズ・アンダーソン、そしてわたくし近松才鶴の三人が出かけたフランス滞在での成果は、予想以上でした。

岩倉さんの周到な調査による「EUの現在と未来」と題した五十六枚のペーパーには、EUの課題がすべて浮き彫りにされており、フランス国立図書館(ミッテラン館)で集めた資料が大きく物を言いました。

鶴矢軟睦支社長は岩倉隆盛さんの資料を高く評価し、東京本社が非常に喜ぶだろうと言いました。

わたくしは、ジェイムズの取った情報のまとめと北原さんがいろいろと話してくれたフランス情報のまとめ、この二つのまとめを四十三枚のレポートにして鶴矢先輩に渡しました。

こちらの方もいろいろ参考になる内容が散見されて非常に面白いと評価していただき、東京本社に、岩倉さんの資料と共に早速送ろうと言ってくれました。

このような情報収集の仕事とは別に、フランスでのもう一つの出来事、すなわち、わたくしとシェイクスピア様との出会いが、啓蒙思想家ヴォルテール様を介する形で行われたブローニュの森での出来事について、鶴矢先輩に報告いたしました。

「そうか。シェイクスピア様はフランスとも深く関わっていらっしゃるのだなあ。出没自由自在、シェイクスピア様の存在感が世界至る所を覆っているね。凄いことだ。フランスでの仕事、ほんとうにありがとう。

ところで、気になることが次々に頭の中を駆け巡ってくるのだが、一刻の猶予もならない事態が、やはり、ギリシアだ。

今度は、ドイツに続いて、ぼく自身が行くことに決めたが、山口ひばりさんとガブリエル・ロドリゲスの二人を同行させたい。

明日の出発で、慌しいが、二人にはすでに伝えてある。とても喜んでいるよ。留守の方をしっかり頼む。時々刻々の様子はしっかりと伝えるからね。」

ギリシアに立つ前日に、細かく、ギリシアの気になる部分を鶴矢先輩はわたくしに語ってくれました。その説明によると、こういうことです。

ギリシア危機と呼ばれる二〇一〇年以降の一連の財政危機は、二〇〇九年に政権が変わったことによって発覚した財政赤字の隠蔽がきっかけとなって引き起こされたものでした。

このギリシア危機が発端となって、欧州債務危機と言われるようなEU加盟国全体に影響が及ぶ問題が様々に論議されるようになり、順調に進んできているかのように見えたEUとそのユーロ経済圏に思わぬ亀裂が見えた出来事がギリシア危機であったわけです。

言わば、二〇一〇年代に入って、EUの在り方が問われる根本的な問題が世界の前に曝け出され、EUが抱える癌細胞のようなものを発見したというような経済事件になってしまいました。

その後、ギリシア危機の問題が完全に解決されたかと言えば、決してそうではありません。幾度も危機的状況に直面し、その度ごとにギリシアの政治は混乱と緊張を生んで、どうにかこうにかやり過ごしながら現在に至っているのです。

そのあたりをもう一度しっかりと見極めなければならないというのが、今回の鶴矢先輩のギリシア訪問の主たる目的でした。

ギリシア危機はいつ何時でもぶり返して、EU各国に負の影響を波及させるか分からない側面が感じられるからです。

それともう一つ、日頃から、ロンドン・オフィスでよくやってくれている山口ひばりさんを少し慰労してやりたいということもあって、アテネ観光などによって、地中海の風に吹かれてみようという息抜きも少しばかりありました。

ガブリエル・ロドリゲスの同行は、彼が唯一わが社におけるギリシア語の使い手であるという理由からです。

彼はギリシア人の母親とスペイン人の父親から生まれた人物であり、スペイン語とギリシア語の二か国語は何の不自由もありません。

アルゼンチンのブエノスアイレス大学で哲学と文学を学び、特に、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの文学に取り組んだことが彼の自慢になっています。

二十世紀のラテン文学の最高峰に位置するボルヘスに心酔し、一度は、小説家になろうと本気で考えていたことがあると、ガブリエルは何度もわたくしに語りました。

なぜ、彼が日本語に堪能かと言えば、彼の父親であるディエゴ・ロドリゲスが駐日スペイン大使館に六年間勤務していたことがあり、ガブリエルは十二歳から十七歳のときまで、父親に同行し、日本で過ごしたということです。

そのとき、母音の多い日本語とスペイン語の近似性、発音的にもほとんど難しくない日本語に親しみを感じ、ガブリエルは日本語の虜になったそうです。

漢字を毎日書いて覚え、三省堂の漢和辞典を隅から隅まで読み込むという入れ込みようでした。生来、文学愛好癖のある彼は、川端康成文学にのめり込み、川端の作品を殆ど読破してしまったという強者です。

こうして見ると、今回のアテネ行きの三人は、申し分のないコンビであると思えます。アテネ到着後のホテルや案内人などはどうなっているのかという不安がわたくしの脳裏をかすめ、鶴矢先輩に訊きました。

「ホテルの予約は大丈夫ですか。また、先輩がいつも気を利かせて下さり、現地で困らないようにと日本人の案内人を準備してくださったようなことは、アテネではどうなっているのでしょうか。ちょっと気になりますが。」

「全く心配ないよ。ぼくの息子が迎えに出てくれるから。ああ、すまん、すまん。まだ話していなかったかな、才鶴ちゃん。ぼくの一人息子がアテネ大学で学んでいるんだ。ちょうど二十歳だがね。

ぼくが二十八歳の時、生まれた子だ。ヨーロッパの源流文化を学びたいと突然言い出して、ロンドン大学で一年間ほど過ごしたのち、アテネへ行かせてくれと言って聞かないんだ。

困ったものだと悩んだ挙句、アテネへ送り出した。そういうことだ。その息子にもちょっと会いたいというのが、今回のアテネ行きへぼくが加わった理由だよ。みんなにはそのことは言っていないがね。」

「そうだったんですか。全く知りませんでした。すごいことですね。アテネ大学でヨーロッパ文化の源流を学ぶなんて。

日本人がアテネ大学で学ぶというのは、そんなに数はいないですよね、多分。希少価値ものだと思うのですが。」

「兎に角、変わった息子なんだよ。何を考えているのかさっぱり分からん。アテネ大学を出て、どこへ行くのかね。まさか、ギリシア危機の中へ飛び込んでいくんじゃないだろうなあ。ほんとに心配だよ。」

ちゃっかりと息子の鶴矢子規くんをアテネでの出迎えとして準備する鶴矢先輩の抜かりなさには、わたくしも言葉がありませんでしたが、それにしても、ギリシアはなぜ難しくなるのかという問題をもっと、鶴矢先輩の口から聞いておかなければならないという思いが走って、尋ねました。

「鶴矢先輩、ギリシアという国はいろいろと危機だ、と言いますか、難しさに直面することの多い国のようですが、どういうことでしょうか。」

「歴史を考えてみたら分かるよ。アレキサンダー大王の時代を最盛期として、その後の歴史は、ギリシアは苦難に満ちていたというべきだね。

ギリシアはヨーロッパだが、ローマ文明とギリシア文明の違いは紀元前はともかくとして、紀元後の歴史においては大きな相違を生み出したと言える。

その一番大きな原因は三九五年から始まったローマ帝国の分割統治だ。

西ローマ帝国はローマ法王を中心とするローマカトリックの圏域に入ったが、問題は東ローマ帝国だ。

こちらはイタリア半島のローマを捨て、新しい都をコンスタンティノープルとしてローマ帝国の東側半分を支配することになった。

このとき、ギリシアを包摂するバルカン半島は東ローマ帝国に属することになり、ローマとは違う文明の領域に入った。

同じキリスト教とは言え、ローマカトリックとギリシア正教が東西に並び立つ状態が生まれたわけで、キリスト教文明の香りもローマとギリシアとではかなり違うようになったのだ。

その後、バルカン半島および黒海沿岸に広がるスラブ諸族の間にはギリシア正教の流れをくむ東方正教の文明圏が形成された。だから、ヨーロッパの西側と東側では文明の色合いが違う。

さらに、ギリシア正教はキエフからモスクワへと影響を広げ、ロシア正教というもう一つの総本山をこしらえた。だから、ギリシアとロシアは文明史的に非常に深くつながっているね。」

「いやあ、高校時代の世界史の勉強を思い出させるような解説ありがとうございます。

わたくしの記憶によりますと、東ローマ帝国はビザンツ帝国と名前を変えたこと、そしてついに、一四五三年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させてビザンツ帝国(東ローマ帝国)は滅亡したということ、このように年号まで思い出せるのは、一四五三を「いよい(一)よ(四)降(五)参(三)」と語呂の悪い語呂合わせで覚えたからです。」

「まさに才鶴ちゃんの言うとおりだよ。結局、このオスマン帝国支配下でギリシアが再び独立を勝ち取るようになるのは、一八三〇年のことであった。

そうしてみると、オスマン帝国支配下の時代が三七七年もあったわけで、ビザンツ帝国の領域はオスマン帝国となったために、イスラム化が進み、バルカン半島にもイスラム勢力が支配を広げた時期をもろに被っているわけだ。

そうなので、独立後のギリシアが周辺のイスラム勢力に抗しながら、キリスト教国家として、自力で生きていくには余りにもその国力は脆弱だったのだ。

そこで三国、すなわち、イギリス、フランス、ロシアの支援を受けて、何とか国家の体を成して、政権を運営してきたが、財政的にはいつも債務を負ったままで返済もままならぬ債務体質から抜け出せたことはほとんどなかった。そう言っていい。

政治的にも様々な立場と主張を行う政党の対立によって不安定な状態が続き、総じて、ギリシア独立以来の二〇〇年近い歴史の政治と経済は、現在に至るまで、外国の力に頼りながら何とか生き延びてきたものと言えるだろう。

それが国家としてのギリシアの姿だね。外国の干渉を受けやすい国家、あるいは外国への依存がないと生きられない国家といったお国柄だと思う。

二〇一〇年以来の騒がれている「ギリシア危機」というのは、考えてみれば、ギリシアの近現代史の中で、絶えず、見られた「ギリシア危機」であり、「ギリシア危機」はいつも存在したと言っていいくらいだ。

歴史の事実に従えば、そういうことになる。

しかし、今、ギリシア危機というのは、欧州ソブリン危機とも言われるような、危機として捉えられている。

国家が抱えている国債が返済不能に陥り、債務の不履行となってしまう、いわゆる、国家のデフォルトが起きる巨大な経済事件が、ギリシアを発端として、スペイン、イタリアなどの他のEU加盟国へと連鎖反応を起こすのではないかという不安が、欧州全体に広がってしまったから始末に負えない。

これは、ユーロ通貨圏が連鎖的に巻き込まれてしまうような構造を自ら作り出してしまったというEUの姿であるために、簡単にギリシアを切り捨てるというわけに行かない難題に直面しているのだ。難しくてややこしい問題だよ。

経済の問題は、とかく、人のうわさや作り話、情報の流し方などによって、揺さぶられることが多い。ちょっとしたことでも過剰に反応してしまう。また作為的に一つの方向へと誘導する経済情報の操作も多いのだ。

そういうことなども含めて、この目でアテネの空気をしっかりと感じてみようというわけだ。」

「わかりました。大変なギリシア行きを決断されていらっしゃることがよく分かりました。無事にいってらっしゃいませ。留守をしっかりと預からせていただきます。」

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