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不思議な言葉 その4

野田は、何が問題なのか、心の中ではっきりと整理してみた。自分のふるさとには残念ながら、『だじばむ』という言葉は存在しない。それが最大の問題である。また、だじばむに相当する別の言葉がふるさとにあれば問題ないが、そういう言葉も見つからないようである。しかし、ふるさとにはない言葉だとしても、はっきりとわかりやすく辞書などで説明されるのであれば、理解できるから何の問題もないだろう。

ところが、『だじばむ』というこの不思議な言葉は、ほかの言葉では説明不可能だという点において、厄介な問題を引き起こしているのである。だじばむはだじばむとして理解しなければならないという点である。社長も妻も、何でもないことのように、きわめて自然な感じで、だじばむを理解しているように思える。説明を求めても、だじばむはだじばむだという返事しか返ってこない。和世田大学の教授もテレビで同じことを言う。辞書を引いても、同じことが書いてある。だじばむの意味を理解しようと努める野田をあざ笑うかのように、まわりはことごとく、だじばむはだじばむだ、と言い切る。完全に、野田の置かれた状況は四面楚歌だった。

野田の心の中で一大変化が起き始めた。ようし、こうなったら意地でも『だじばむ』を解明してやるぞ。誰もやらなかった大仕事、言語学者も匙を投げて、臆面もなく、同語反復の罪を犯している『だじばむ』という言葉、この謎の言葉をほかのわかりやすい言葉に移し替えるという一大作業を成し遂げるまでだ。だいたい、この世に、ほかの言葉で説明できないような言葉なんてあるものか。冷静に考えてもみよ。人間が幼い頃、行なう行為、精神的な意味でも身体的な意味でも、子供がやることで説明不可能な行為というものが果たしてあるだろうか。あるはずがない。言葉の持つ微妙なニュアンスだか何だか知らないが、それとて、説明しようと思えば説明できないはずはない。野田は、俄然、燃え上がるものを感じた。人生においてこれほど興奮したこともないような興奮が沸き起こってくるのを感じた。

一見、野田佐吉の生活に大きな変化はないように見えたが、内面の奥深く、一つの言葉を巡る定義への壮絶な戦いが始まっていた。NHKのクローズダウン現代に出ていたあの和世田大学の加藤駄児男教授が、民放のあるテレビ番組に出て「だじばみ欠乏亡国論」を熱っぽく語っているのを、野田はたまたま見た。その番組で、先進諸国には概して『だじばむ』子供たちは見られなくなっていると語ったが、反対に、開発途上国では、多くの子供たちが元気にだじばんでいると述べた。そのことを教授は自らの体験を通して語った。仕事でインドを訪ねる機会があったが、そのとき、多くの子供たちがだじばんでいるのをインドで見ることができたと述べ、新興国インドの発展を、インドの子供たちのだじばみぶりから説明した。

野田の心の中に、この番組で語った加藤教授の言葉が深く印象に残った。経済発展を遂げた日本で『だじばみ』をみることができないとすれば、インドにでも行って、インドの子供たちをつぶさに観察し、そこから『だじばみ』の何たるかを知らなければならないと感じた。その思いは、だんだん強くなり、ついに、是非ともインドに行こうという決意にまで発展した。インドの子供たちの生態を観察し、『だじばみ』を解明するのだ。インドの大地で飛び跳ねている子供たちが野田を呼んでいるように思われた。

ある日、野田は社長に言った。

「社長、まことに申し訳ありませんが、一つ、私のわがままを聞いてもらえませんか。私は結婚して以来、一度も、妻と連れだって旅行したことがなく、そのことが非常に気になっております。ゆっくり二人で旅行をしたいと、最近、とみに思うようになり、妻とインド旅行にでも行きたい気持ちが湧いてきておるところです。本当に、わがままとは思いますが、少し休暇をいただければ、ありがたいのですが・・・」

この野田の願いに、社長はあっさりと許可を与えた。

「何だ、奥さんと一緒に一度も旅行したことがないのか。それはだめだ。それはいかん。どこにでも行ってこい。遠慮はいらん。インドでもアフリカでも行きたい所へ行ってこい。妻は大切にしなくちゃいかん。妻楊枝と違うからな。はっはっはっは。」

まことに物分かりの良い社長であった。インド旅行の本当の目的を社長に告げるわけにはいかなかったが、妻と一緒に旅行したことがないのは全くの事実であり、二つの目的をインド旅行で満たすことができることになった。ひとつは、『だじばむ』こととはいかなる謂いぞ、という大命題の解明、もう一つは妻を喜ばせるという念願の達成、この二つである。野田は社長から十日間の休暇をもらった。

「おい、今日、社長から十日間の休暇をもらったぞ。幸恵と一緒に旅行に行くんだ。ずっと、気になっていたからなあ。一度も旅行に連れて行ったことがなくて、悪いと思っていたよ。海外へ行って楽しんで来ようではないか。」

「えっ、突然、なにっ。海外旅行ですって。どういう風の吹きまわしなの。嬉しいけど。ヨーロッパに連れて行って下さるの。それとも、アメリカ。社長さんから、よくまあ、十日間ももらったわね。」

「インドに行くんだ。インドに行くと決めた。インドは今、新興国として活気がある。成長目覚ましい国だ。そういうところがいい。インドは面白いぞ。」

「インドですか。全然、興味のないところだわ。インドのどこがいいのよ。むさ苦しい暑い国よ。インドカレー食べたいんなら、私がおうちで作ってあげるわ。」

「いや、ヨーロッパなんかより、ずっとインドがいい。発展しきっている国や成熟した国は面白くない。開発途上の国がいいんだ。」

こういうやりとりが二人の間で続いたが、妻の幸恵はついに折れて、インド行きを同意した。そして、幸恵は行き先よりも何よりも夫と二人で旅行できることのほうがずっとうれしいと言った。

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