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虹を架けた男 その1

穂高邦昌(ほだか・くにまさ)は、一見、平凡な青年に見えたが、非凡であった。石川高専を卒業して、東京の機械メーカーの会社に就職した。「日の丸精密機械株式会社」という名の会社で、社長は前田家利と言い、穂高邦昌と同じ、石川県の出身である。

社長は、よく穂高邦昌に声をかけてくれた。故郷が同じであるという親近感があったことは間違いないが、何となく、この青年が気に入り、穂高青年の非凡さを鋭く見抜いたのかもしれない。

「穂高、君の親父は何をしているのか。両親とも元気か。親孝行はするものだよ。しっかりと頑張ってくれ。」

「はい、社長さん、有難うございます。父は銀行に勤めています。母はレイメーキングの教室を開いています。」

「レイメーキングというのは何だね。あのハワイの花輪のレイを作る教室かね。あまり聞かない言葉だが。」

「そうです。ハワイの花輪のレイの作り方をいろいろと教えてあげる教室です。母は何度かハワイに行ったときに、ハワイの色々な花の美しさと鮮やかさに魅せられ、その花で作られたレイの魅力にすっかり嵌ってしまいました。5年前から、レイメーキングの教室を始めました。」

こんな会話を交わしたのが、前田社長と穂高青年の心温まる交流の始まりであった。日本政府の防衛省からの極秘の依頼で或る重要な、軍事機密にかかわる精密機械を製作することになったときに、ひそかに穂高青年を呼び出して、これをやってくれないか、君なら出来ると思う、という思いもかけない仕事を前田社長から任せられたのである。まだ、入社して、1年3ヶ月しか経っていないときであった。

要請されたものの諸条件をまず図表に一覧できるようにし、それを分かりやすく図解してみる。さらに、イメージをいくつかの絵図に表して見ながら、頭の中に出来上がっていくアウトラインとディーテイルを正確に設計図として仕上げていく作業を、コンピューターを使って、穂高邦昌は完璧な寸部違わぬ精度で成し遂げていくのである。

穂高邦昌は、小さい頃より、整理整頓が大好きであった。きちんときれいに片付ける。これが彼の特技といってもよかった。どこに何があるか、完全に記憶していた。物を探し出すのに、慌てたりすることはなかった。どこに仕舞ったかな、などと自問することは一度もなかった。

完璧な図面を仕上げる才能は、幼少時からの「きちんと」「きれいに」何事もしなければ気がすまない性質と深い関係があるように思われた。物をイメージする力、物を記憶する力、物を正確に表現する力、この三つが三位一体となって彼の才能を形作っていた。また、因果関係や相関関係を的確に見通す力も備えていた。

穂高の設計図に従って、製品が作られ、防衛省に納めたとき、前田社長が受け取った言葉は、完璧だ、非常によく出来ている、というものであった。

「おい、穂高、君の設計図は非常によくできていた。防衛省は完璧だと言って、満足して製品を受け取ったよ。」

「そうですか。これで、ほっとしました。何か言われるかなと、ちょっと不安でしたが、満足してもらえて光栄です。」

「ただし、口外は禁物だよ。取引先が取引先だからな。誰にも言うなよ。われわれの商売はときに極秘のものが舞い込んでくる。口は堅いに越したことはない。自分はこういう仕事をしたと言って、自慢するのもよくない。静かに黙って胸の奥に仕舞っておくのが一番だ。」

「分かりました。そのようにします。」

穂高は、会社での仕事が面白く、楽しかった。充実した毎日を送った。穂高には一つの趣味があった。アーチ型のものに強く引かれるという趣味と言うか性癖があったのだ。アーチ型と言えば、すぐに思い浮かぶのが虹である。空に架かる大きなアーチ、空のアーチという意味の「アルク・アン・シエル」はフランス語で「虹」だ。フランス語は虹とアーチが深く結びついている。

一方の地点からもう一方の地点まで完全なアーチを描いている虹は意外と少なく、一地点から立ち上って、頂点付近で消えるもの、すなわち、半アーチ程度のものや、もう少し描いて3分の2程度で終わっているものなど、不完全なアーチが多いのである。両端が完全に地面に付いている完全な虹のアーチを見たときには、穂高は大いに満足する。

要するに中途半端なものが嫌いなのだ。アーチ型の橋を見たときも、穂高は興奮する。めがね橋と言って、二つのアーチで橋を作っているのを長崎で見たときも面白いと感じた。つり橋などは逆アーチで橋を吊っているが、それも面白い。

なぜ、穂高はアーチに惹かれるのか、その理由を自分でも時々考えることがあった。形自体が美しいのだ。そう思った。しかし、それは非常に単純な解釈に思えた。もっと何か別の理由があるに違いない。

ふっと、かすめた考えが「君臨」というものであった。そうだ、君臨だ。抱擁し包み込んでいるイメージもあるが、結局、一定のテリトリーを自分のものであると主張しているような「君臨感」なのだ。だとすると、自分は何かに対して君臨したいという思いが強い人間なのか。そういう潜在意識がどこかに眠っているのか。どうもすぐには信じられなかったが、或いはそうかもしれないという気持ちを否定することも出来なかった。

設計技師として、いつも完全を求めている性格を考えると、絶えず、自分自身に対して、自己統治を行っているようなものだ。しかし、アーチは円形に膨らんでいるので、君臨は君臨でも、抑圧ではなく、愛を持って抱擁しながら君臨するということだ。愛の君臨、いいではないか。そう考えた。

このように一つ一つにこだわって、考え込み、それが答えであろうとなかろうと、答えを出してしまわなければならないというのも、穂高の性格であった。

アーチの美しさと君臨感は、変な例えだが、野球で言えば、塁に出たら、残塁で終わってしまうことなくす、必ず、ホームベースを踏まなければならないという完璧さに似ていた。残塁といういい加減さは許されない。そんなもったいないことは許されない。そういう感覚である。かまわない、かまわない、ドンマイ、といったいい加減なことは穂高にはどうしてもできない性質であった。

例えば、漢詩を作るとする。法則に従って、韻律を完璧に整えなければ気がすまない。自由詩は韻律がないから、自由でいいというのも結構だが、決まりのあるものを作ってみたくなる。決まりに挑戦し、決まりのごとくに完全に成し遂げる。そういうのが好きであった。決まりがないのがいいのではなく、決まりの中に、すっぽり包まれているというのがむしろ良く、そこに自由すら感じるという境地である。

俳句や短歌も、字余りというのが嫌いだった。5,7,5というように、きちんとなっていなければならない。5,7,5,7,7でなければならない。5,7,6,7,8ではいけないのだ。それが穂高の世界であった。

決まりの中に納まっていると、安らぎ、落ち着き、自由を感じることが出来る。不自由ではなく、自由を感じるのである。それでは、まるで牢獄に入っているようなものではないか。そう考える人もあるだろう。しかし、穂高邦昌からすれば、それは全く逆の話で、決まりもなく気分のままに生きている人は、自由に見えて実は不自由な人であり、決まりの中に生きている人こそ、実は自由なのだ。これが穂高の感覚である。これは逆説でも何でもない。穂高にとっては、真理なのだ。

だから、言い訳みたいなものもあまり好きではない。四の五の言わずに、やることはさっさとやる、そのようにはっきりさせた生き方が、気持ちがいい。それが穂高の精神である。ぐちゃぐちゃしていないと言えば、これほど、すっきりした人間も珍しいくらいに、すっきりしていた。すっきり爽やかコカコーラよりもすっきりしていた。

虫がいそうなところへ行くときには、虫刺され予防のエアゾールを肌があらわになっているところには、万遍なく、吹き付けて行く。大切な肌を虫に咬まれてなるものかという慎重さもまた完璧なのである。

穂高邦昌は、順調に会社での仕事をこなしていった。仕事は楽しかった。社長もよく声をかけてくれた。仲間たちとも談笑した。しかし、非常に自信過剰な奴と見られることが多く、自分ではそんなことは全くないと思っていたのだが、少し生意気に見えるらしかった。彼の自信に満ちたものの言い方、はっきりとしたものの言い方がそういう印象を与えていることは確かであった。

あっという間に、入社してから3年の月日が流れていった。注文の品々に対する設計図をどのくらい描いたか、数えることも出来ないほど描いた。その中で、アーチ型のものの設計も入っていて、それを製図するときは我知らず興奮するのを覚えた。

ベトナムの川に架ける橋の設計で、アーチ型にしてほしいという注文を会社が受けたとき、ぜひ自分にやらせてほしいと進んで願い出たものである。川に虹がかかっているような姿に完成させたいと思い、七色の虹のアーチ型ブリッジを架けることにした。世界一美しい橋を架けたいと思った。このアイデアと設計図を受け取ったベトナム側は、非常に喜んだ。これは観光の目玉になると大いに期待してくれた。

もう一つ、カナダからの依頼で、カナダ版ディズニーランドとも言うべき「キッズニーランド」をアルバータ州に作るという話から、その中に直径300メートルの大きな半円形の虹のアーチをつくるということになって、それの設計依頼が日の丸精密機械株式会社に持ち込まれた。ベトナムでのアーチ型ブリッジの評判もあり、穂高邦昌に白羽の矢が立った。実際、この会社にカナダが依頼してきた理由は、ベトナムの橋の息を呑む優雅美麗の絶景にキッズニーランドのダグラス社長が感慨無量となったからであった。

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