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「世界制覇」その1

僕らは大きな夢を抱いて、青春街道をまっしぐらに突き進んだ。恐れるものは何もなかった。中学、高校と一緒だった五人の仲間は、バンドを組んで腕を磨いていった。高校を卒業するのが待ち遠しかった。夢は世界制覇。そう、僕らの音楽が世界を制覇するのだ。

僕はドラムの中野剛志(なかのつよし)、あとの四人の仲間を紹介しよう。ボーカルでギターの日野良治(ひのよしはる)はバンドのリーダーを務めるグッドな奴だ。人望もある。

もう一人ギターの野村一樹(のむらかずき)はジミー・ペイジを尊敬する熱情的なミュージシャンである。野村はコンサートでしばしばカリスマ的な陶酔境に入る。

月舘秀平(つきだてしゅうへい)は天才的なピアニストで、彼の奏でる音は、僕らの音楽に、ある時はパッションを、ある時はメランコリーを、ある時はファンタジーとイリュージョンを、ある時は狂気を与える。物静かだが、深遠な内面を湛えているのだ。背中の中ほどまで延びた髪を揺らしながら演奏する彼の姿は神秘の国の王子だ。

月舘の才能は、ピアノだけではない。曲によっては、サックスも担当する。そのサクソホーンの音色もまた聴衆を痺れさせるのだ。月舘秀平は名サックス・プレイヤーとしても輝いている。

ぼくらの曲において、月舘がプレイするピアノとサックスは、ほぼフィフティー、フィフティーの割合である。当然、バラード調のロックはピアノ演奏になり易く、ハード・ロックはサックスあるいはピアノが演奏を担当する。

河原博司(かわはらひろし)は曲によってバイオリンを、或いはパーカッションを器用に演奏し、多彩な才能を展開する。バイオリニスト兼パーカッショニストである。

バンド名は、最初、『オリエンタル・ファイブ』と名乗っていたが、日本を世界に輝かせるのだ、とリーダーの日野が宣言したことから、リーダーのその言葉を受けて、僕が提案したものが受け入れられ、『スピリット・ジャパン』へと変更された。

日野良治は、いつもみんなに気を配りながら、五人をまとめる和合の力量を示した。その一方で、絶えず、詩作を行った。われわれのバンドのほとんどの曲は、その作詩の恩恵を日野の詩魂に負っている。彼はミューズ神の恩寵を頂く詩人である。

詩集を読むというのが日野の主たる読書であったが、たとえば、谷川俊太郎や萩原朔太郎、アポリネールやボードレールといった詩人の書を、彼はいつも手にしていた。

なかんずく、中原中也の詩が日野の心を深く捉えていることは、バンド仲間に知られた事実である。日野は中也の詩を大抵はそらんじている。であるから、日野が時々、バンド練習の休憩のときなどに、突然、ひとりで中也を詠じてもだれも驚かない。彼が詠い上げるのをみな黙って聞いているのだ。

なかんずく、中原中也の詩が日野の心を深く捉えていることは、バンド仲間に知られた事実である。日野は中也の詩を大抵はそらんじている。であるから、日野が時々、バンド練習の休憩のときなどに、突然、ひとりで中也を詠じてもだれも驚かない。彼が詠い上げるのをみな黙って聞いているのだ。


   トタンがセンベイ食べて
   春の日の夕暮は穏やかです
   アンダースローされた灰が蒼ざめて
   春の日の夕暮は静かです


   ああ!案山子はないか―――あるまい
   馬嘶(いなな)くか―――嘶きもしまい
   ただただ月の光のヌメランとするままに
   従順なのは春の日の夕暮か


中原中也の『山羊の歌』の出だしのところであるが、この歌の奥深い意味を知るのは、ただひとり日野良治のみか、はたまた、何を考えているのか分からない月舘秀平なのか、いずれにせよ、詩情に溢れた天才でなければ理解しがたいポエジーである。

このような詩は、ドラム叩きの僕には到底分らない謎の言葉であり、詩であるというよりも、ほとんど「エニグマ」に近い。僕は逆立ちしても日野のような詩人にはなれない。

自分で言うのも何だが、僕は観察者だ。冷厳な観察者だ。日ごろは滅多に会話しないし、口数は至って少ない。だが、すべてを正確に見つめている。

ギタリストの野村一樹については、言うべきことが多い。ただ単に、彼がジミー・ペイジの崇敬者であるということだけでなく、曲作りにも深くかかわり、われわれのバンドの奏でる曲の七十パーセントは野村の作曲であるということだ。残りの三十パーセントは月舘秀平の手によって作曲されている。

野村は非常に繊細緻密なところがあり、そうかと思うと、熱情に駆られて宇宙空間を雄飛するかのごときサウンド・ダイナミズムを創出するという静と動の統合を演出する音楽をしばしば産み出すのである。

作曲における静の呼吸を、たとえば、レッド・ツェッぺリンの「天国への階段」から多く学んだ野村であるが、それに加えてクラシック音楽からも相当に学び取った。クラシックとロックの距離は、案外、近い。

野村のバッキングは完璧だ。彼は見事にボーカルの日野をサポートする。日野は野村の伴奏にしっかりと支えられていることを実感する。野村はバッキングだけで終わるにはもったいないと感じる日野は、必ず、野村自身のギターソロの部分を入れるようにと、野村の作曲に注文をつけた。

野村はそうするようにした。曲によって、ピック奏法による場合とフィンガー・ピッキングによる場合があるが、それらの両方を使い分けて、野村は『スピリット・ジャパン』の幅広い音楽世界を世に披歴した。

月舘秀平というピアニストが、もしわれわれのバンドの一員でなかったならば、彼は世界的に著名なクラシックのピアニストになっていたに違いない。

彼の叔母は、かの有名な世界的なピアニスト、真由子・シュミットである。ドイツ人作曲家アルベルト・シュミットと結婚する前までは、若林真由子の名で知られていた日本を代表するピアニストで、結婚後は、ドイツのボンに在住して、世界的に活躍を続けている。

その叔母が、小さい頃の月舘秀平のピアノの先生であり、口癖のように、秀ちゃんは天才的なところがあるわ、と言っていたのである。

月舘が東京芸大への入学合格をふいにして、バンド仲間と道を同じくする選択を取ったことの背景には、彼が芸大を蹴ったことと深く関係して、両親の別れまで発生した心の痛い出来事があり、彼は言葉数がめっきり少なくなり、彼は孤独感を深めていった。

ぼくは月舘と非常に仲が良いのだが、彼の複雑な内部の感情はもうひとつ掴めないでいる。ただ、彼は意志強固で強いエネルギーを秘めているので、簡単に潰れてしまうようなやつではない。その点は安心している。

バイオリニスト兼パーカッショニストの河原博司は、われわれの中では最もお喋りであり、インタビューなどを受けるときには最も多くしゃべる。訊かれていなこともどんどん喋る。余計なことを結構、喋るのであるが、毒はない。多彩で器用、柔軟な外交人間、繊細な気遣い屋、ハンサムで好感度は高い。

彼のいいところは、われわれが世界的に大きくなっていく過程で、多くのインタビューを外国メディアから受けるようになったとき、英語で受け答えすることができた唯一の貴重な人間であったということだ。

彼は父の仕事の関係で、十歳から十五歳まで、アメリカのシカゴで過ごした。それが英語を流暢によどみなく話すことのできる理由だ。

河原は、バンド・リーダーの日野良治といつもじゃれ合っている。二人はとても仲がいい。河原は絶えずダジャレを飛ばし、くだらないことを喋りながら、一人で悦に入っている。それを大いに喜び、一緒になってお腹を抱え、笑い転げているのが我らのバンド・リーダー、日野良治である。

そういう日野が言うには、河原のダジャレや言葉遊びには、詩作に欠かせないインスピレーションがあると言うのだ。河原とのダジャレごっこに付き合っていると、思わぬインスピレーションが湧いてくると言うのだ。

河原は、作詞はしないが、間接的に日野良治の作詞に貢献しているということになるのである。

さて、僕は自分のことについてもう少し話さなければならない。どういうわけか、小さい頃、ぼくは棒切れなどを持って、そこら中の物を叩くのが好きだった。

理由は分からないが、とにかく、何か叩いて音を出すというのが好きで、よく怒られた。祖母はぼくに対して、また、剛志が叩いている、と言って怒ったのをよく覚えている。

中野家は学校の先生をしている人が多かった。ぼくの両親、それに叔父に叔母、親戚中を見まわすと、全部で五人の先生たちがいる。

高校の国語の先生をしているぼくの父は、ぼくに、本を読め、本を読めといつも言った。本を読まないやつは、自らの人生に深みを作り出すことが出来ない、そう言うのが父の口癖だった。

父の言葉に逆らったわけではなかったが、僕は、それほど本は読まなかった。代わりに、音楽に没頭したのである。

中学校に入るや否や、ブラスバンドに入り、ドラムを叩いた。それは、ぼくの小さい時からの物を叩く性癖がおのずと行き着く場所であった。父に言われた「本を読め」という指示は、音楽関係の本に限って言えば、よく守られたと言えよう。

ざっと、バンドの五人のメンバーについて語ったが、この五人は不思議なバランスを保っており、個性的なものを強調すればバラバラに孤立する人間たちが、五人の化学反応の進行が絶妙な世界を作り出すという効果によって、見事な統一性を生み出していた。

バンドの結成というのは、そういうことだろうと思う。また、バンドの解散劇なども、化学反応の反応期の終わりという法則のしからしむるところであろう。ビートルズの結成と解散、ほぼ十年の寿命は神が与えた天命であったと考えればいいのではないか。ぼくはそう思っている。




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