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不思議な言葉 その6【最終回】

インド旅行の目的の一つは見事に達成され、もう一つの目的は達成されなかった。妻を喜ばせるという目的は、十分に果たされた。だが、『だじばむ』の意味を解明するという目的はついに果たされなかった。

『だじばむ』という行為をインドの子供たちは、果たしてやっていたのか。皆目見当がつかなかった。「ほかの言葉に置き換えて説明できない」という部分にこだわれば、そんなものは一つもなかった。大概は見たそのままを説明できる行為ばかりであった。たしかに、奇妙なことをしている子供を見たこともあった。土の中に入って、首だけを出している子供を見た。何をしているのかわけのわからないことではあったが、あれをまさか『だじばむ』とは言わないだろう。インドには難行苦行する奇人が多いが、あの子供はそんな奇人変人の真似をしていたのかもしれない。野田の常識からすれば、『だじばむ』子供たちを捜し出すことは不可能なことであり、定義不可能な謎の行為をしている子供などいるはずもないというのが最後の結論であった。かくして、インド旅行の最大の収穫は愛する妻を喜ばせることができたことであり、ただそれだけであり、それ以外にはなかった。

次第に、野田は、周囲が結束して自分を欺いているのかもしれないというような疑念を抱くに至った。しかも、その企みに妻までもが引き込まれているという誇大妄想に取りつかれてしまった。社長もNHKも妻も民放も大学教授も、辞書の広辞苑までも、すべてが自分を欺くためにグルになっている。ただひとりの純情な企業人、野田佐吉を欺いてみんなで喜ぶために、そして、『だじばむ』なる言葉によって引き起こされる野田の狼狽ぶりを見て拍手歓喜するために、壮大な罠が仕掛けられたのだ。どっきりカメラの程度ではない。この一連の出来事はどこからか、一部始終映像に収められており、近く、テレビで、映画で、公開されるのであろう。そして、みんな、大爆笑しながら、茶の間で、映画館で、野田は世界中から笑い物にされる。これが現在、自分の身の上に進行している偽らざる事実に違いない。野田は本気にそう信じ始めた。

ある日、社長が言った。

「野田君、君は最近、ますます、元気がないように見える。インドで夫婦旅行などして大いに発散したのではなかったのかね。元気出せよ。」

「社長、もうそろそろ冗談は止めにしてもらえませんか。怪しげな言葉でこれ以上悩むことはできません。分かっているんです。この仕掛けはあまりに大きなものであるために、わたしは、最初はまったく気づきませんでした。でも、これは私に向けて仕組まれた罠であることは、今や、明白です。そうではありませんか。私の妻までも仕掛けの中に引き込むなんて。協力金として、妻にいくら渡されたのですか。十万円ですか、百万円ですか。ひどいじゃありませんか。」

「何のことかね。さっぱり分からんことをいきなり言い出して。本当にどうしたんだ。」

「知らないふりをされても、だめです。事の真相をわたしは理解したのですから。『だじばむ』という言葉は存在しません。」

「本当にどうしたんだ。『だじばむ』という言葉が存在しないなんて、誰が信じるかね。辞書にも出ているじゃないか。君は本当に疲れている。休息が必要だな。」

野田は、家路に向かった。妻にもことの真相を確かめなければならない。

「幸恵、もうそろそろ他愛もない「騙しごっこ」は止めようじゃないか。お前までグルになって、この私を物笑いにするなんて。夫を物笑いの種にするのがそんなに楽しいかい。はっきり言うが、『だじばむ』という言葉は世の中のどこにも存在しない。いつNHKと打ち合わせしたんだ。この壮大な騙しごっこを。最初の仕掛け人はだれなのだ。社長かね。」

「何の話なの。どうしたのよ。『だじばむ』がどうしたって言うの。あなた、しっかりしてよ。「騙しごっこ」ってどういうこと。何の仕掛けの話なの。あなた、本当にしっかりして。私があなたを騙すってどういうこと。」

「もういいよ。気分が悪い。どいつもこいつもふざけやがって。もう寝る。」

こう言って、野田は自分の部屋に引き下がり、横になっていろいろ考えた。5年計画か、10年計画で仕掛けられたと思えるほどの野田佐吉に向けられたこの超ウルトラ・スーパー・どっきりカメラ、このようなことをいったいだれが考えたのか。辞書まで陰謀に加担させる仕掛けぶり、これを命じ実行させるほどの権威ある仕掛け人とは誰か。世はお笑い時代に入っているとは言え、これはいくらなんでもひどすぎる。俺をいじめてそんなにだれが楽しいのだ。こんなことをしてだれが得をしているというのか。つまらないことはやめてくれ。野田は果てしなく悶々とした。そのとき、妻が入ってきた。

「あなた、大丈夫ですか。すこしお疲れの様子ですね。あなたの好きなロマネ・コンティをお持ちしましたわ。飲んですこし神経を休めてください。」

夫のことを妻の幸恵が深く心配し始めて、ワインを運んできた。このような妻の様子をじっと見ていると、野田は、妻までもが自分を陥れているといった疑念がふっと消えるのであった。やはり妻は仕掛けの仲間ではない。そんな気持ちになった。

妻が仕掛けの仲間でないとすると、やはり、『だじばむ』という言葉はあるのかもしれない。大体、自分が思い詰めたような壮大な仕掛けと言ったこと自体が非現実的な話ではないか。NHKや岩波書店が加担するような仕掛けというものが果たしてあるだろうか。自分の考えは間違っていた。疑って悪かった。誰も自分を欺いたりしてはいない。自分の思い過ごしだ。妻が運んだワインを口にしながら、段々、野田は冷静さを取り戻してきた。『だじばむ』という言葉はある、そう思うようになってきた。右に左に揺れた野田の考えは、行き着くところ、矢張り、『だじばむ』はあるということになった。

自分だけが知らない不思議な言葉があり、そしてそれを、世の中の人はきわめて自然に理解している言葉がある。分かりやすく定義したり説明したりすることは難しいが、同語反復のトートロジーによってしか説明できない言葉がある。たまたま自分はそれを知らなかっただけだ。しかも、自分は幼いころそれを大いにやっていたらしい。不思議で、不思議でならないことだが、どうやら、そういう言葉があるらしいことは確かのようだし、またその言葉の意味する行為もあるらしい。それだけのことだ。これ以上を追求することはやめにしよう。このようにおのれの気持ちを整理し、野田は自分で自分に言い聞かせた。


もう、すっかり『だじばむ』のことを気にとめなくなりつつあったときのある日のこと、野田は夏芽漱積の文学論を何気なく読んでいた。すると、「『だじばむ』に関する一考察」なる個所が偶然見つかった。ああ、あの夏芽漱積も『だじばむ』を考え続けた作家であったのか。突然、わくわくするような、長年の疑問が氷解する瞬間が訪れるような喜びに似た期待感が野田の心を一瞬にして占領した。夏芽漱積の考察のポイントとなる部分は次のようなものであった。

「・・・そもそも『だじばむ』なる言葉は、だ、じ、ば、と続く言葉の響きからして、濁音が三連続し、む、で閉じている。このような濁音の連続性は、言語学的に稀であり、耳に聞こえた感じも心地よいものではない。

どこからきた言葉なのか判然としないが、思うに、縄文人が呪(まじな)いの一種として唱えていた言葉ではないか。この濁った言葉の語感が悪魔も嫌うところとなり、結果、魔除けに大いに役立ったものと思われる。子供たちが元気に育つのを願う思いは、縄文時代も現代も変わらない。子供たちの一切の行為を『だじばむ』と唱えたところ、それが思いのほか魔除けの効果があった。そういうことではあるまいか。

この『だじばむ』は、やがて、子供たちの行為の全体性を説明する言葉として発展し定着して、子供たちのやることなすことすべての全一性を『だじばむ』で言い切ったものと考えられる。定義のむずかしさは、あまりにも意味が大きいため、あるいは、多義語すぎるため、一つを説明したような気になっても、そのほかの様々な意味が欠落してしまうので、いつごろからか、『だじばむ』は『だじばむ』だとする風潮が一般的となり、すっかり説明不可能な言葉となってしまった。要するに、子供たちの生きざまのすべてを、ただ、『だじばむ』とだけ言えば済むようなそういう言葉になったのである。

これが、余がこの言葉について長年思考を重ねてきた結果の結論である。大きくは、「遊ぶ」「学ぶ」「手伝う」の三義が中心的意味として含蓄され、それを核として子供たちのなすあらゆる種類の行為がこの言葉の中に吸収され尽くすのである。従って、世間の辞書が『だじばむ』の説明を『だじばむこと』とするのは間違いではないが、少しく、物足りない。思い切って、『子供たちのなすところのすべての行為を表わす総合動詞』くらいには書いてほしいものである。余が少しく憂うるところは、今後、子供たちがあまり、だじばまなくなっていくのではないかという杞憂を抱いておる。世の中が発展していくにつれ、次第に、子供たちが怠慢になるのではないか。遊ばない、学ばない、手伝わない、要するに貧困時代に見られる「ハングリー」「貪欲」の資質を失い、横着な快楽人間の類に堕していく可能性を予見せざるを得ぬ。杞憂であればよいが、そうならないことを祈りたく思ふ。」

野田佐吉は、胸のすく思いをした。目から鱗が落ちた。その日、野田は、しっかりと、夏芽漱積の本を胸に抱いて、心地よい眠りに就いた。

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