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画家の魂 その3【最終回】

笠木治郎吉「漁師の家族」

まだチョンマゲの姿で漁をしている明治初期の漁師の家族を描いた水彩画がある。この「漁師の家族」は笠木治郎吉(1870-1923)の作である。

江戸時代の名残がある海辺の様子が彷彿として迫る画であり、男の子を右肩の方へ抱き上げている母親はいかにも逞しく、夫と何か話をしているが、夫もその体躯は漁師の力仕事にふさわしく、がっしりと描かれている。

夫婦二人の間に顔を覗かせて、話に加わっているのはおそらく祖父であろう。漁を終えた後であろうか、粗末な木造の小舟を浜辺に引き上げたその場所で漁師一家が談話している風景である。すぐそばには藁で葺いた小屋が建っている。

明治の欧化政策が盛んに行われていた時代の片隅に、江戸時代がそっくりそのまま残っている海辺の景色、漁師の家族を画題として切り取った笠木治郎吉の才覚を認めざるを得ない。近代的画法で、過ぎ行く江戸時代の残像を、笠木は一幅の画の中に留めたのである。

平面的な二次元の画法ではなく、肉感のある三次元の画筆を揮い、「漁師の家族」を描き上げた笠木の才能は、当時流行の西洋画(油絵)と較べても少しも引けを取らない。笠木の作品は、どれを見ても人を惹きつけるものがあり、何とも言えない魅力がある。


石川県金沢の出身である笠木治郎吉は、青年時代、単身で横浜に移り住んだ。五姓田柳芳らの影響を受けて画技を磨き上げていったが、横浜で活躍したという事情もあって、笠木の作品はほとんど横浜在住の外国人たちにより、海外に流出した。

日本に何も作品が遺されていないような、無名の画家になってしまった笠木であるが、絵画コレクターである高野光正が、笠木の作品の秀逸さに目をつけ、20年余りに亘って欧米を訪問し、笠木の作品を収集した。

日本ではほとんど無名の画家の質の高い水彩画が海外市場に多く登場するという異変に気付いた高野光正が、必死の努力で笠木の作品を集めたのである。

アメリカ、イギリス、ベルギーなど、欧米で発見された笠木の作品はどれもこれも優れた作品であり、明治美術史が書き留めなかった一人の天才を、現在、日本美術界は改めて認識しているところである。

笠木の作品を見た人は、誰もが驚嘆し、賛辞を惜しまない。笠木は、「収穫」「帰農」「弓矢の猟師」「種をまく人」「蝉を取る子供達」「猟師の親子」「花を持つ女」「提燈屋の店先」など、おおかた、田園讃歌というべきモチーフを取り上げている。

「漁師の家族」を見ても分かる通り、笠木の才能の一つは、人物の描写が迫真的で力強く巧みであるということである。例えば、「帰農」に描かれた母と子の愛情溢れる表情などは極めて印象的である。

非常な才能に恵まれながら、黒田清輝らの「白馬会」を中心とする明治主流画壇に属することなく、独自の立場で研鑽を重ねていた笠木は、目立ちにくい立場であったことは確かであるが、笠木の卓越した才能に大きな評価を与えていたのは、皮肉にも、横浜在住の欧米人であった。


笠木は一般庶民の生活をリアルに描いた。そこには黙々と生きる庶民とその生活を心から愛する笠木の姿がある。庶民に暖かい愛情を注いでいる笠木のまなざしがある。

働く農夫をテーマとする笠木の画風は、モネやミレー、浅井忠などに通じるものがある。近年における笠木作品の発掘は、まだまだ続行しているが、英国美術館蔵の「老婦人肖像画」は油絵であり、水彩画から油絵まで、いろいろと画技を広げていた笠木の姿が認められる。

チリで発見された「ドイツ人女性肖像」は、笠木の画法の高さを証明している。海外に多くの作品が拡散した明治の画家の笠木治郎吉、彼は日本でこそ知られざる画家、忘れられた画家としてその存在自体が暗闇の中に包まれていたが、海外には笠木ファンが多く、高い評価を笠木の作品に与えているのである。

「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない」(ルカ12:2)という聖書の言葉があるが、まさに、笠木治郎吉はそういう人物として明治画壇史の余白を埋める作業に加わったのである。

笠木の好感度をあえて言えば、家族の姿を他の画家たちよりも多く画題として取り上げている点であろう。人物描写の卓越さも挙げなければならない。色彩感覚も鮮やかである。美術愛好家はもちろん、多くの日本人が笠木治郎吉の名前を覚えていただきたいと願う。



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