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愛を語ろう その1

今昔物語 姨捨山

今昔物語(巻30の9)に「姨捨山(おばすてやま)」の話がある。

「今は昔、信濃国更科に住む男がいた。年老いたおばを母のように面倒みながら暮らしていたが、妻はこのおばを嫌ってなにかと愚痴をこぼすうち、夫もしだいにおばを粗末にするようになった。

おばがいよいよ老いぼれてくると、妻は夫に、おばを山に捨ててきてくれという。夫はしばらくは捨て切れずにいたが、妻にせめられ、ついに八月十五夜の月の明るい晩、寺の説教を聞きに行こうとおばをだまして背に負い、深い山奥に連れていって置き去りにして逃げ帰った。

家に帰りついてこのことを悔い悲しんでいると、折から山の上に月があかあかと輝いていた。それを見てよもすがら眠れず、こう歌を詠んだ。

「我が心なぐさめかねて更科や姨捨山に照る月をみて」。

そしてまた山に登って行っておばを家に連れ帰り、もとのように一緒に住んだ。それ以来、この山を姨捨山というようになった。」

この短い話が時を超えて日本人の心に深くしみ込んできた事実は否定できない。特に、「また山に登って行っておばを家に連れ帰り、もとのように一緒に住んだ。」という最後の部分を読んで、ほっと安堵の気持ちを抱く読者の気持ちは人の情として自然なものである。

姨捨伝説は世界の各地にあり、また、日本バージョンでも幾つかの類型が存在するが、「今昔物語」バージョンが、慈悲深さと救いを感じさせるものになっているのは、本当に有難いことである。

年老いたおばを母のように面倒みながら暮らしていた夫は立派であり、残念ながら、妻のそそのかしで次第におばを粗末にしていくようになる夫の姿が悲しくもなるが、やはり、この夫は無慈悲になり切れず、おばを山から連れ帰ってもとのように一緒に暮らしたというわけであるから、めでたし、めでたしである。

「姨捨山」は、一見すると、残酷な物語に見えて、最後は、慈悲深い仏の心で締めくくっている構成であるから、このような物語に触れてきた日本人の魂は、本質的に、書いた人も読んだ人も、命をいたわり慈しむ「優しい心」を人間としての貴い精神としていると言える。


作者も成立年代もはっきりとしない『今昔物語』であるが、平安末期(1120年代以降)の作品であるという推測はほぼ確実なようである。

天竺(インド)、震旦(中国)、本朝(日本)の三部で構成され、因果応報の教訓的な仏教説話および一般処世訓に結びつくような興味深い世俗説話など千数十が三十一巻の中にぎっしりと記述されている。日本で最大の説話集が『今昔物語』であるから、一度はざっと目を通しておきたいものである。

『今昔物語』は、文学的興趣に富んだ説話が多いため、後世の多くの文学者が目をつけるところとなり、なかんづく、芥川龍之介の『今昔物語』への愛情は非常に深いものがある。

『今昔物語』を題材にして、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』など多くの作品を書いた芥川龍之介であるが、そのほかにも、近代文学の錚々たる作家たち、例えば、菊池寛、室生犀星、谷崎潤一郎、佐藤春夫、瀧井孝作、堀辰雄、福永武彦、幸田露伴、田辺聖子、今東光、杉本苑子など、枚挙にいとまがないほどの作家たちが、『今昔物語』という強力なブラックホールに吸い込まれていった。

「今は昔(今となっては昔のことですが・・・)」と言い切れない説得力のある魅力を『今昔物語』が放っているということか。


八百年前に『今昔物語』に記された『姨捨山』の話は、年老いたおばを捨て切れなかった男の話である。

この話を現代に引っ張ってくるとどういうことになるのだろうか。『今昔物語』をきちんと読んでいなければ、『姨捨山』と聞いただけで、老女を山に捨ててくる残酷な物語であると勘違いしてしまうかもしれない。

しかし、老女は山に捨てられていない。山から連れ帰って元のように一緒に暮らしている。『今昔物語』の作者は、これが人の道であると言っているのである。

『今昔物語』の老女は、男の老いた母親ではなく、おばである。親族の一人である。現代において、山ではなくとも、どこかに老人たちを捨ててくる人はいないだろうか。要らなくなった荷物のように年老いた祖母や祖父を捨ててしまう人はいないだろうか。

家族の愛の絆がしっかりと結ばれて暮らすことが何よりの幸せというものである。親がいなければ、子はいない。子がいなければ、孫も出てこない。親がいて、子がいて、孫がいる。この絶対不変の因果律は否定できないものである。

「年寄は家の宝」と言うが、そのような精神が薄らいできている昨今、『姨捨山』の男がとった行動を思い起こしてみてはいかがだろうか。『姨捨山』は現代への深い教訓を語っている。


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