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不思議な言葉 その1

野田佐吉は、五十を少し超えた歳になっており、大手の会社の中間管理職を務めている。人望もあり、良識も備え、人間関係は上にも下にも良い。ある意味では、模範的な企業人であり、日本社会が理想とする人間の類型であると言えるかもしれない。

しかし、彼にはひとつ大きな困った問題がある。この問題に関しては、まわりの者も、家族も、誰一人相談相手になってもらえないという悩みであり、ここにその悩みを告白せよと言われるならば、その悩みというものは或る言葉の意味に関するものであることを明らかにしなければならない。

ここまで話すと、何だ、たったそれだけのことか、そんなに悩むような問題ではないだろうと誰もが考えてしまうのである。いまさら、人に訊くようなことでもないし、恥をかくのがいやだと言うのであれば、言葉の意味ぐらい、辞書を引けばわかるだろう。広辞苑であれば、たいていの言葉は見つかるはずであり、特殊な難しい言葉なら、専門的な辞書を引くか、それでもだめならば、日本語大辞典と言われるような、数十万語を収録した辞書だってあるはずだ。言葉の意味が分からないからと、ひそかに悩んでいるのは解せない。

確かにその通りである。全くその通りである。異論はない。しかし、分からないものはわからないし、分かりようがないのである。そんなバカなことはないだろうと反論する御仁もあろうが、実際、分からないし、分かりようもないのである。

もう少し具体的に、説明しなければなるまい。たとえば、次のような会話を耳にするとする。この会話の意味を野田は理解できない。社長が野田にこう語りかける。

「いやあ、野田君、夏だな。我々の世代は、夏になれば、野山を駆け巡り、海辺などで遊んだりして、大いに、汗ばんだり、だじばんだりしたものだ。ところがどうだ。最近の子供たちは、ちっとも、だじばんだりしないなあ。全く情けないよ。」

ここに出てくる「だじばんだりしたものだ」という言葉、そして現在の子供たちは、ちっとも「だじばんだりしない」という言葉、この何やら「だじばむ」という動詞らしい言葉の意味である。「汗ばむ」は分かる。「だじばむ」が分からないのである。この会話を推測すると、汗ばんだり、だじばんだりしたものだ、というくだりから、何となく分かるような気はする。おそらく、「だじばむ」は「汗ばむ」が激化した状態、すなわち、大いに汗をかくこと、或いは、滝のように汗をかくことというような意味に違いない。このように、野田は考えてみたりするのである。しかし、絶対にそうだという確信はない。次のような会話を聞くと、「だじばむ」は突然、神秘的な言葉になり、いくつかの意味をもった多義語のように感じられ、とても深い言葉ではないかと推測したりしてしまう。

「野田君、この前、赤坂の料亭『小梅』に行ったんだがね。なにしろ、久しぶりに顔を出したので、女将(おかみ)が開口一番こう言うんだ。まあ、社長さん、お久しぶり。生きてらしたのね。すっかりご無沙汰していらっしゃったから、だじばまれたのかしら、なんて思ったりしていたところですのよと、こうくるじゃないか。参ったよ。」

社長のこんな言葉に出くわすと、「だじばむ」が大いに汗をかくことというような意味にはどうしても取れなくなるのである。この女将の「だじばまれた」は、お病気でお倒れにでもなっていらっしゃったのかしら、といったような響きとして伝わってくる。野田は、「だじばむ」という言葉に翻弄され、「だじばむ」の意味を巡って悩みを深めるばかりであった。 

気がねのない家族であれば、とりわけ、妻からそれとなく聞き出すという手口で、あっさりと「だじばむ」の意味を把握することができるだろう。そう思って、野田は妻にさりげなく訊ねた。

「今日、社長に言われたんだが、最近の子供たちは、だじばんだりしないとお嘆きのようだった。ほんとに、そんなにだじばんだりしないかなあ。うちの子はどうだい。」

「それはまさに社長さんの言う通りよ。うちの雅也もちっともだじばんだりしないわ。そもそも『だじばむ』という言葉そのものが、子供たちには何のことか分からない位、最近の子供たちはだじばむことに縁がなくなっているわ。情けないわね。」

社長と同じことを言う。どうやら妻も『だじばむ』がどういうことを意味するのか、理解しているらしい。そこで野田は、妻に次のように言った。

「幸恵の故郷の埼玉では、だじばむという言葉で、子供たちのふるまいを話していたようだが、島根の浜田の方では、そういう言い方はしなかった。だじばむという言葉は使わなかった。だじばむという言葉を分かりやすく、他の言葉で説明すると、どういう意味になるかなあ。」

野田は、妻の幸恵がどういう説明をするのか、全身全霊を傾けて、妻の言葉を待った。

「そうねえ、他の言葉に置き換えて言えと言われても、むずかしいわね。ぴったりする言葉がないわ。『だじばむ』は『だじばむ』としか言いようがないわね。やっぱり、だじばむはだじばむよ。それしか言いようがないわ。」

何たることか。だじばむはだじばむとしか言いようがない。そんなバカな。それほど、他の言葉では説明できない微妙なニュアンスをもった言葉なのか。何なのだ、だじばむとは。頼みの綱と期待した妻にも見捨てられた。ああ、神よ、我に、だじばむの何たるかを教え給えと、思わず、野田佐吉は心の中で叫んだ。

辞書を引いてみなければならない。こうなったら辞書を引くしかない。銀田一春吉の国語辞典を引いた。あった!『だじばむ』は存在した。意味の説明を読んだ。「だじばむこと」としか書いてない。だじばむはだじばむことなのか。ふざけるな!何の説明にもなっていないではないか。もう少し、何か書いてある。「だじばむの同類語として『がじばむ』『らじばむ』『ばじばむ』などがあり、ばじばむは「ば」が繰り返し発音され、発音しにくいことから、使われなくなった。地方によって、らじばむと言ったり、がじばむと言うところがある。」これで説明は終わっている。丁寧にも、同類語などを挙げる努力があるのであれば、だじばむの意味そのものを分かるように説明してほしい。こんな不親切な辞書がどこにあるのだと言いたい。

野田は怒り狂って、次に広辞苑を引いた。何と書いてあるのか。「だじばむこと。最近はあまり使われなくなったが、他の言葉で説明しがたく、きわめて、日本的特質をもつ言葉である。使われ方によって、意味の広がりを持つ。」とあった。

ああ、これでは、『だじばむ』なる言葉を理解することは不可能である。しかし、社長の口から出るあの自然な語り口、そして、妻の分かり切ったことのような口ぶり、しかも、体験的にそれがどういうことであるのか十分に熟知しているといった雰囲気、まわりの人々は『だじばむ』を体験的に知っているのだ。最近の若者たちは『だじばむ』を知らなくなってきているとは言え、五十代以上の人々は大抵知っているのだ。どうして自分は知らなかったのか。島根県浜田市の生まれであるからか。この歳になるまで、迂闊にも自分は『だじばむ』を知らずに生きてきた。野田は悶々たる気持ちであれこれ考えた。

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