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不思議な言葉 その2

野田佐吉が、人知れず、『だじばむ』という摩訶不思議な日本語で苦しんでいたとき、ちょうど、タイミングよく、NHKの夜7時半から始まる『クローズダウン現代』で、「若者たちのだじばみ離れを斬る」という番組があった。野田は「溺れる者、藁をも掴む」の心境でこの番組に飛びついた。これで何とか『だじばむ』の意味を掴めるだろう、そう思った。

番組の司会を務める国山浩子が、最初に、今回の番組が企図された背景を説明した。

「こんばんわ、クローズダウン現代、今夜は、若者たちのだじばみ離れを斬ると題してお送りいたします。なぜ、現代の若者たちはだじばまなくなったのか、もっとだじばむべきではないのか、昔はよくだじばんだものだ、こんな声がよく聞かれる昨今でありますが、この問題にお詳しい和世田大学の加藤駄児男(かとう・だじお)教授にいろいろとお話を伺いたいと思います。

加藤先生は若者たちのだじばみ離れについて、いろいろと本を書いていらっしゃいますが、たとえば、『若者よ、もっとだじばめ!』、『だじばむことから人は多くのことを学んだ』、『日本文化の核心としてのだじばみ』、『だじばみを忘れた日本は滅びる!』など、今や、だじばみ解説の専門家として注目を浴びていらっしゃいます。

早速、お伺いしますが、だじばむということに関心を向けられた理由は何ですか。」

このように問いかけられた和世田大学の社会学の加藤駄児男教授は待ってましたとばかり、司会者の問いに次のように答えた。野田は一言一句聞き漏らすまいと息をのんだ。

「はっきり申しますと、こんにち、私がこのようにあるのは幼い頃、岩手の田舎で大いにだじばんだ御蔭であると断言してもよいのですが、わたしをはぐくんでくれたこの尊いだじばみの精神がいつごろからか日本社会において薄れはじめ、今や、全くと言っていいほど、なくなってきているということに気がついて、これではいけないと危機感を覚えたのがきっかけですね。

半年前にイギリスに行った時のこと、イギリスでは日本のだじばみの精神を学ぼうという機運があることを知り、だじばみを学んで実践したイギリスの子供たちが生き生きとしてきているという報告を聞きました。だじばむは今や英語でそのまま『だじばむ』という単語として通用し、英英辞典には、dajibamで立派に出ています。びっくりしました。いくつか辞書を見てみますと、たとえば、I dajibamed so much yesterday. (私はきのうめちゃくちゃだじばみました)というような例文まで載せてありました。だじばむの意味をどう説明しているか気になり、数冊の辞書を見てみましたが、やはり私が思った通り、to dajibam(だじばむこと)としか書いてありません。だじばむのニュアンスをほかの言葉で説明することのむずかしさは英国でも同じなのだなあと感じて可笑しくなりました。

このように、外国でも、だじばむことを評価する時代になってきているというのに、わが日本では全く顧みられなくなった。これほど残念なことはありません。」

野田は、加藤教授の話を聞いて、愕然とした。だじばむの的確な説明はまったくなかった。だじばむという言葉によってだじばむを理解しなければならないのか。酷な話である。何と不可解千万なことよ。番組の中で、加藤教授はこんなことを語った。

「だじばむことがどうして大事なことなのか。まず、だじばめば、心がやさしくなる。思いやりのある優しい心の持ち主になれる、これが何といってもだじばみ効果の最たるものです。今日、青少年による残酷な事件が多発しているのも、だじばまないで育ってきた結果だと思いますね。心が荒れすさんでいるのは、だじばまなかった結果なのだと思います。これは私の確信というか信念みたいなものですが、だじばみのある社会は平和で潤いがある。だじばみは社会を救う力を持っている。だじばみがあれば、間違った社会にはならない。極論すれば、だじばみは社会を救い世界を救う。こう言ってよかろうと思います。」

何という確信だろうか。だじばみは世界を救う。これが加藤教授の確信であり信念であるという。野田佐吉は理解してみようと焦るばかりだったが、いかんせん、古い世代の人間はみんな当然知っているという前提が、だじばむという言葉には付きまとっており、野田はこのことに我慢がならなかった。自分はそのことを知らない。はたして自分だけが知らないのか。どうもそうらしい。自分だけが知らないのだ。

 加藤教授の弁舌は熱気を帯びていた。だじばみの歴史的考察にまで話は及んだ。

「だじばみを最もよく体得された方として、聖徳太子を挙げることができると思います。幼いころ、どのようにお育ちになったのかよく分かりませんが、おそらく、大いにだじばまれたのだと思います。そうでなければ、あの十七条憲法を説明することはできません。十七条憲法に書かれていることはすべてだじばみの精神から説明できますし、大いにだじばんだ子供時代があったればこそ、聖徳太子はあの十七条憲法をお書きになることができたのだと、こう考えております。」

だじばむの意味を理解できない野田は、だんだん、心が苛立ってきている所為か、加藤教授の話についていけず、批判的な気持ちになってきた。どれだけ、だじばみについて話されようと、そのだじばみが野田には分からないのだ。

教授の話の通りだとすれば、子供時代、よくだじばめば、みんな聖徳太子になれるということではないか。そんなにだじばむことは大切なことなのか。世界中の人々がだじばむようになれば、世界平和が訪れると言うのか。それほど、だじばみが重要であると言うのなら、だじばみをみんなに分かるように、とりわけ、この自分に分かるように説明してくれ。そしたら、子供たちを、昔の子供たちと同様に、大いにだじばませてあげようではないか。野田は論駁し、反論する精神で爆発状態だった。

野田はまったく冷静な気持ちを失った。だじばむの意味さえ分かれば、すべては解決するのだが、肝心要のそれが分からない。野田に許されている唯一のことと言えば、ひたすら、だじばむの何たるかを推測すること、これしかないのである。誰もだじばむの意味を語らない。だじばむは余りにも分かりすぎた人間行為であり、とりわけ、人は幼い頃、よくだじばむ、あるいは、だじばんだのである。ほかの言葉に置き換えることが難しい微妙なニュアンスを含んでいるらしい、何だか深みのある「だじばみ」なる行為を、昔の子供たちは、いともたやすくやりとげていたのである。いや、やり遂げていたという表現は大袈裟であり、不適切なのかもしれない。ごくごく自然に無邪気にやっていたのかもしれない。さあ、これからだじばむぞ、といった気負いもなく、きわめてナチュラルにやっていたかもしれないのである。野田の思考回路は結論の出ない妙な推理ごっこで疲労困憊だった。


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