そんな当たり前のことを

 私が文章を書くにあたって、「これはやめといた方が良いな」と、書いた後に捨てることは何度もあった。そして、何度も書いて何度も捨てた一つのテーマがある。いつ書いても、何度書いても、「これはやめておいた方が良いな」と捨ててきた。それなのに何度も書いているのは、私の中で、「書きたい」と思うからである。私の中で、ある種のタブーとなっているテーマとは、「多様性」である。
 多様性をテーマにした文章は、あっさり書いてしまうとうまく伝わらない気がして、塗り重ねるように書き潰すとむしろ薄っぺらくなってしまう。なぜかはよく分かっている。多様性のことを書くこと自体が、多様性から外れているからだ。自分自身の考えから反したことを書くと、「これはやめといた方が良いな」になるのである。
 「多様性」という言葉は、ある意味ずるい! 「多様性だから」とすれば、その時点で既に何かしらや誰かしらを"多様性という枠組み"に入れてしまっていて、多様性から外れるのである。
 私の考える多様性とは――とても簡潔だけれど――「そんな人もいるよね」と、あらゆる人を認め、許すことだ。そして、「認め」と「許し」とは、上から目線である。自分が許し(認め)て"あげている"と、見下くだしたニュアンスが入ってしまっているところが、言葉の弱いところで、わずかにかわいらしいところでもある。
 そんなズレた皮肉のようなことはおいておき、私が考えるその先の多様性とは、言葉としての「多様性」が存在しないことである。「多様性」などという言葉を使わなければいけないこの状況こそが多様性から外れているのだと、そう考える。
 「多様性」なんて言葉を使わずとも、「そんな人もいるよね」が、みんなの中に当たり前の常識として入っている状態こそが、真の多様性が達成されている世界なのではないのか。

 ただ、残念なことに、現在のこの世ではまだ、多様性という言葉と意味を浸透させる段階であって、まだまだ当たり前の常識になるのは遠そうだな、と思う次第。


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