見出し画像

「父と青いグラブと高田繁」

「高田を見とけよ。あんやろ(あいつ)のレフトの守備は天下一品だど」野球に興味を持ち始めた僕に父は言った。
1938年(昭和13年)生まれの父は巨人ファンだ。

高田繁は1945年生まれ。浪商高校では1年生で左翼手として出場し、夏の甲子園で優勝した。明治大学在学中に7期連続で東京六大学のベストナインに選ばれた。通算127安打は2015年まで六大学の記録だった。1967年にドラフト1位で巨人に入団する。

攻走守三拍子が揃った選手だった。守備範囲が広く、左翼線付近のクッションボールの処理が的確なうえに強肩だった。二塁を狙う打者を何度も足止めして、「高田ヒット」と言わせた。
反対に自身の打撃では、左翼線ぎりぎりのファウルが多かった。「『高田ファウル』です!」とアナウンサーが嬉しそうに実況したものだ。

*

僕は1966年に生まれた。実家は房総半島の南の端っこにあって、祖父と父で建具屋を営んでいた。母屋の裏に赤いトタン屋根の仕事場があった。
板張りで15畳くらいの広さだ。正面奥に祖父が、向かって左に父が座った。2人とも短い鉛筆を右耳に挟んでいる。道具はどれも良く手入れされて鈍く黒光りしていた。父が中央の台でカンナを掛けると、透けるほど薄いカンナ屑がしゅるしゅると宙に踊った。仕事場では一日中トランジスタラジオがかかっていた。

小学校に上がるとグラブを買ってもらい、夕方父とキャッチボールをした。実家の前は幅3mほどの路地だった。国道と県道に挟まれていたから、暴投すると往来の車にぶつけてしまう。
「こへ(ここへ)投げんだど。こへ!」身長160センチの父が左胸にグラブを構えて何度も言った。

*

1975年、「長嶋巨人」の1年目は最下位に終わった。高田の出場機会も減っていた。そしてシーズンオフに張本勲がトレードでやってくる。
「張本の野郎、『レフトしかやらねえ』ってそいてん(言ってる)だべ?高田を追っ出すんか?」父はものすごく不機嫌だ。

長嶋は高田の三塁コンバートを発表してファンを驚かせた。レフトからサードなんて前代未聞だ。高田本人も最初は驚いたが、多摩川や宮崎で猛特訓に耐えた。死に物狂いだ。自宅でもお腹の大きい妻にボールを転がしてもらって捕球の基本動作を繰り返した。

翌年開幕から「サード・高田」が誕生する。
この年から後楽園球場が全面人工芝になっていた。濃緑のホットコーナーで、鮮やかなブルーのグラブが躍動した。高田が三塁手用としてメーカーに作らせたものだ。ライナーバック(人差し指を出す穴が開いている形)で、ウェブは十字のクロスだった。交叉の真ん中に赤く優勝カップのモチーフが刺繍されていた。
巨人はセ・リーグを制し、高田は「ダイヤモンドグラブ賞」を受賞した。外野手と内野手両方で受賞する選手は初めてだった。打撃も3割を超えた。

ある日、キャッチボールする父のグラブも青くなった。
「お父ちゃん、買ったんけ!?」
「おおさ。スポーツ屋に頼んでよ、やっと来たっぺ」父はにやにやしながらグラブを撫でた。
父は地区のソフトボールチームでセカンドを守った。茶系のグラブがほとんどの中で、その青はとても目立った。父は使い終わると端切れで汚れを落とし、丁寧にオイルを塗った。誰にもグラブを貸さなかった。

*

僕は祖母に溺愛されてわがままに育つ。
「貧乏人のお坊ちゃんがよ」父はよく言ったものだ。
それでもキャッチボールは続いた。やがて4歳下の弟が国道側のカバーに立つようになる。

父は息子2人の学業に全く興味を示さなかったが、僕が高校でも野球を続けたいというと喜んだ。
せっかくぎりぎりで第一志望に入れたのに、と渋る祖母に父が土下座した。僕も並んで土下座した。
「勉強もちゃんとやらせっからよ、母ちゃん」
「どの口が言ってんだい」
それでも祖母は最後に折れた。

高2の夏、練習試合で本塁打を打ったことがある。実家の隣町にある町営球場だった。
「よう打ったの」夕飯のとき、父がコップで冷や酒を飲みながら言った。
「お父ちゃん見てたんけ?」
「配達ん途中で試合やってっから覗いたら、お前(め)らだった」
それは高校時代で唯一のスタンドインになった。

3年生になる冬に、僕はキャッチャーミットを新調したかった。プロモデルのオーダーメイドをしたいと言うと、父が顔をしかめた。
「既製品でいいじゃねえか。だから『お坊っちゃま』っつうんだよ」
僕は年賀状配達の短期アルバイトをした。足りない分は頼み込んでお年玉を充てた。進学のために取っておく金だった。
電車を乗り継ぎ、3時間以上かけて飯田橋の野球専門店に出かけた。
父が電車賃を出してくれた。

*

4年前の8月に父は心臓の手術を受けて入院した。右の鎖骨のあたりにペースメーカーを埋めた。

不安がって突然騒ぎ出すことがあった。退院までの2週間、夜は僕が付き添うことになった。ストレッチャーのような細いベッドを父の隣に並べて眠る。18歳で実家を出るまで、父と同じ部屋で寝たことはなかった。

職場へ向かうために毎朝5時半に起きた。父はすでにベッドの上であぐらをかいてイヤホンでテレビを見ている。ニュース番組でプロ野球と高校野球の結果を知るのが楽しみなのだ。

「高田は上手ったなあ。長嶋(茂雄)は派手すぎて好きじゃねった(なかった)」ある朝イヤホンを外しながら父が言った。
「お父ちゃん、青いグローブ覚えてる?」
「おっさ。あら(あれは)タバコと酒代ずいぶんと我慢して買っただんにお。どへ(どこに)しまったか忘れちったな」父は懐かしそうに笑った。

今年の2月下旬に、父は息を引き取った。

亡くなる3日前に病院に呼ばれたとき、父の腕は普通の血圧計では測れないほど細くなっていた。
「あったかくなったら鰻食いに行けっからよ、がんばっべよ」僕は父の左手を両手で包んだ。
あごがほんの少し動いた。

亡くなったのは祝日の午後で、病院はひっそりとしていた。よく晴れて暖かな日だった。
僕は用意していたワンカップを開け、人差し指で父の唇を湿らせた。

母に代わって喪主を務めた。遺影を抱えて1台目の助手席に座った。葬式を出した菩提寺から隣町の火葬場まで30分ほどかかる。
ぼんやりと窓の外を眺めていた。もうすぐ着きますよ、と運転手が言ったとき、バックネットが目の前にゆっくりと姿を現した。

だいぶ古びてしまったけれど、あの球場だった。

「よう打ったの」お父ちゃんが言った。

ステンレスのワゴンで運ばれてきた父の骨は一つ一つが太くて、驚くほど白かった。ペースメーカーとコードが溶けて黒い小さな塊になっていた。

*

実家中を探したが、グラブは出てこなかった。

四十九日の法要を終えて、僕は自宅近くの野球専門店に出かけた。かつてミットをお願いした店の支店だ。ライナーバックでクロスウェブの内野手用グラブをオーダーメイドした。色は鮮やかなブルーだ。

出来上がりが新盆に間に合うか、今のところ微妙だ。好物だった鰻重と一緒に供えられればいいのだけれど。

(右)間に合いました。ベースマン柏さん、ありがとうございました!
(左)約40年前にオーダーしたミット。袋も当時のものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?