見出し画像

カルチャライズについて思うこと①

※注・英語にはculturizeカルチャライズ)とculturalizeカルチュラライズ)という意味のよく似た言葉があり、英語圏の論文などでも、ゲームに関してculturalizeという語を使っているのをよく見ますが、ここでは日本語として「カルチャライズ」で統一しています。

「カルチャライズ」って何だろう?

たまたま自分についての資料をまとめる必要があったんで、「鶴見六百」という名前でエゴサーチをしてみたら、なんだか「カルチャライズ」という言葉と紐付いた記事がいくつか見つかったわけだ(しかも、有料の記事までありやがる!)。

いわく、『クラッシュ・バンディクー』や『ラチェット&クランク』で、ローカライズの枠を超えた日本向けの改変――すなわち「カルチャライズ」を行った、ウンヌン。

へぇー、そうなんだw

例えばオリジナルのゲームを作るとき、文章・グラフィック・音声などのあらゆる要素は、ユーザーに伝わりやすいように、問題を引き起こさないように、吟味して作成する。まあ当然のことだ。鶴見は長くオリジナルのゲームを作ってきたので、ローカライズでもそれと同じことを、自分に許された自由度の範囲内で行っただけなんだけどね。本人の意識としては。

世間では、日本でウケるために鶴見が原作を好き勝手に改変した、と受け取っている向きもおられるようだけど、大事なことなので太字でもう一度書いておきたい。クラッシュもラチェクラも、許された自由度の範囲内で行った「ローカライズ」ですよ、と。

じゃあ「カルチャライズ」って何なのよ?という話になるわけだが、それはローカライズの上位概念とか拡張概念とかそんなものではなく、あくまでもローカライズの一要素だと捉えている。

この記事では、その辺りをチョイト細かく整理しながら、自分が「カルチャライズ」について思ってきたことを書いていこうと思う。たぶん長くなってしまうとは思うけれど、自分の考えをまとめるという意味合いの方が大きいので、まあひとつよしなに。


カルチャライズは「マーケティング案件」

ビデオゲームのローカライズ/カルチャライズに何年か携わってきた身からすると、ゲームに限らず作品の「カルチャライズ」は創作マターではなくマーケティングマター(案件)だとずっと思ってきたわけだし、なんならそれは「常識」だとも思っていた。

――けど、そんなことなかったね。そう思っていない人の発言を、最近よく目にするようになってきている。

つい先日も、超ベテラン漫画家・弓月光さんの発言に対して、

マンガの文化が世界的に受け入れられようとしてるときに、当の漫画家が「日本の多様性は特殊なんだ」とか言っている限り、足かせにしかならない

とか書いている人がいてビックリしたわけよ。

鶴見の常識では、足かせかどうかを考えるのは作家ではなく「世界で売りたい方々」すなわちマーケッターだし、多様性という「海外の文化」に配慮(≒カルチャライズ)するかどうかは、(作家自身が世界で売ろうとしていない限り)作家はそんなことを考える必要すらない。はず。だから、作家の姿勢に対してあーだこーだ云う人間がいるなんて、想像の埒外だったわけだ。

言い換えるなら、受け手側の多様性を考慮するかどうかはビジネス案件であって創作の要件ではないってこと。

まあ当然だよね。本質的に、自分を満足させるために作るのが創作の最小単位だとすれば、それは多様性とは対極にあるものだ。むしろ、そこにこそ作家性が宿っている場合が多かったりもする。創作の要件であるわけがない。

売ろうとする側(漫画の場合は編集部とか出版社か)が、作家に提案するのなら分かる。「もっと多くの読者に読んでもらいたいので、表現を配慮しませんか」とか「翻訳して海外で売りたいので、海外市場に合うように、ちょっと変えませんか」と作家に相談するわけだ。作家が変えたくないなら「海外になんて売らなくていいよ。日本だけで」と答えるかもしれないし、もちろん逆に「海外市場で売りたいから変えるよ。で、どこを変える?」と答える場合もあるだろう。

それを、ビジネスの当事者でもない外野が、「多様性」なんていう流行りの御旗を掲げて、作家の姿勢に意見するなんてのは、お門違いも甚だしいとしか思えない。

『甘い生活』連載30年超だもんなあ。すごすぎるよ。


日本語は「言語≒市場≒文化」

とはいえ、お門違いな意見がはびこるのも、理解できないわけではない(あまり共感はできないけど)。

例えばジャーナリスト。ジャーナリストの書く文章は「創作」とは違って、人に伝える/伝わることこそが要件となる。できるだけ多くの人間に伝えることを目的とする文章――すなわち多種多様な読者を想定した文章が、多様性に配慮するのは当然だ。だから、そんな文化に身を置いている人間(ジャーナリスト)が、「多様性に配慮しない創作は、ジャーナリズムの観点から許せない!」みたいに創作を槍玉に挙げるのは、分からなくもない。創作の根本について勘違いしちゃったまま、自分らの物差しで非難しているわけだ。「多様性」とは程遠い姿勢ではあるけどね。

それにしても、「多様性に配慮しろ!」と訴える人間ほど、「配慮する/しない」の多様性を認めないのは何故なんだろうね。
「平和」を訴える人ほど好戦的で、「優しい世界」を他人に求める人の姿勢はいつも攻撃的で、「平等」を訴える人の心根の奥底に差別主義が垣間見える、みたいなものなんだろうかね。

そしてもう一つ、日本では見えづらい理由もある。

例えば英語のようなメジャーな言語は、様々な国で母国語あるいは公用語として使われている。いわゆる「英語圏」だ。異なる国・民族・文化の人間が、英語というほとんど同じ言語を使っている。なので英語で作品を作るということは、作者の想定しない、異なる文化の受け手にまで届いてしまう可能性が大きい。

さらには、同じ市場圏内に、異なる文化を持つ複数の民族が、それぞれ相当な割合で共生している例も数多い。というか、世界的に見ればそちらの方がスタンダードか。これまた、作者の想定しない受け手に届く可能性が極めて高い。

たしかに、こうした「世界的スタンダード」に照らして考えると、創作時点から多様性に配慮して当然だと勘違いしてしまうのも、出羽守(「欧米では」などと、海外の事例をもとに難癖をつける人)にとっては仕方がないことだと云えなくもないような気がしないでもない。

でも実際には、日本語の作品はほぼ日本市場に向けてのみリリースされているから、受け手は日本人が圧倒的に多いし、違う民族であったとしても、日本に住んで日本語を話し日本文化に慣れ親しんでいる方々がほとんどだ。つまり、日本語作品≒日本市場向け≒日本文化の理解者が前提だということ。これはいわゆる「ガラバゴス」ってヤツだが、良し悪しはともかく、地理的・歴史的な経緯によって生まれた「違い」なので、それと向き合わずに「世界的スタンダード」とやらを振りかざすのは、なんだかなあ、と思う。こうした「違い」を尊重するのが「多様性」なんじゃないのかよ。

ああ、やっぱり「理解」はできても「共感」はできないわ。

美味しんぼ「魅惑の大陸」より
美味しんぼ「魅惑の大陸」より。
多文化対応は大変です。


ローカライズは「受け手の要請」

そもそも論として、翻訳やローカライズを必要とするのは受け手側だ。作品を母国語で楽しみたいという求めから翻訳が為され、作品を母国で入手したいという求めからローカライズが為される。

送り手が最初からローカライズを前提としてプロジェクトを進めることも多いけれど、それはあくまで「海外にも市場を広げたい。多く売りたい」というビジネス都合でそうしているのであって、本来的には、ローカライズの主体は受け手側だと云える。受け手が求め、そこに市場の可能性があるからこそ、ローカライズは為されるのだ。

なので、ローカライズをする上で、原作に何らかの問題があるかどうかは、基本的に受け手市場側の判断になる。そりゃそうだよ、こんな極東の小さな島国でどんな問題が起きるかなんて、作り手が別の国で暮らしていたら分かりようもないじゃない。

例えば…古い話になるけれど、クラッシュ・バンディクー2を作っていたとき、いわゆる「酒鬼薔薇事件」という残虐でスキャンダラスな事件が起きた(詳細は伏せる)。英語版では、クラッシュくんが潰されたときには、頭部に足が付いた状態でジタバタする演出が入っていたのだけれど、これは酒鬼薔薇事件を想起させる可能性があるということで、日本版のみこの演出はカットするよう、開発元のNaughty Dogに相談させてもらった(カットになった)。

実は鶴見には逆の体験もある。セガでアーケードゲームを作っていた頃、「このデザインだと北米市場で問題起きるかも?」と、日本側で勝手に自主規制したものが、実際は問題でもなんでもなく、面白いフィーチャーをただ無意味に削るだけの結果に終わってしまったことがあったのだ。

だいたいさぁ、作り手側が「これ、海外で問題あるかも?」と、よく分からないまま手を縮こめて作ったヌルいものが、面白いわけないじゃん? 作り手の作りたいものの魅力を、最大限そのまま活かすためには、受け手市場で何が問題になって何が問題にならないか、きめ細やかに線引きしなきゃイカンでしょう。そうでなきゃ、世間を動かすトンガったものにはならないよ。

たしか吉田修平さんの提案だったと思う。勉強させてもらいました。


翻訳とローカライズとカルチャライズと

ここで、鶴見が「翻訳」と「ローカライズ」を分けて考えているということを説明しておいた方がいいだろう。翻訳はもちろん言語の翻訳。それに対して、その作品を「受け手側の市場でリリースできる形に整える」のがローカライズ、と分けて考えている。

例えば翻訳の例を示す。カナダは英語とフランス語の2つの言語を公用語としているから、商品パッケージにも、英語とフランス語が併記されていたりする。スーパーに並ぶケロッグのパッケージだって、片面が英語でもう片面がフランス語だ。

画像1

どちらの言語が最初に書かれたのかは知らないけれど、仮に最初に英語で書かれたのだとしたら、フランス語の方は「翻訳」だ。文章以外は何も改変していない。これをローカライズとは云わないことは、直感的に理解できるだろう。

それに対してローカライズの例はこうだ。例えば同じケロッグの日本向け商品は、表示言語が日本語に変えられているだけでなく、側面の「栄養成分表示」も、食品表示法の食品表示基準に則ったものとなっている。日本の法律に則った形で記載しなければ、日本で発売することはできないのだ。

画像2

要は、日本で流通させるためには、受け手(消費者)に商品内容を伝えるための「翻訳」だけでは不十分で、日本という受け手国のレギュレーションに適合させる必要があるということ。これをローカライズだと考えている。

そしてもう一つ。上のパッケージ写真で、右下に小さく書かれている「栄養機能食品」という文字にお気づきだろうか? これは日本の基準に則ったものではあるけれど、特に必須というわけではなく、これを入れなければ日本で売ることができないというものではない。ただ、これを入れた方がユーザーにリーチしやすいことは間違いないだろう。日本市場でより多く売るための追加要素、これもまたローカライズの一環だ(と鶴見は考える)。

実は、この「受け手国のレギュレーションに適合させるための必須要素」と「受け手市場により合わせるための追加要素」こそが、いわゆる「カルチャライズ」と呼ばれているものだ。そして、それぞれには呼称があって:

・適合させるための必須要素
 →「リアクティブ・カルチャライズ(reactive culturalize)」

・より適合させるための追加要素(必須ではない)
 →「プロアクティブ・カルチャライズ(proactive culturalize)」

――と呼ばれていたりする。

冒頭で「カルチャライズはローカライズの一要素」と書いた意味がお分かりいただけただろうか。ローカライズとは「翻訳」「リアクティブ・カルチャライズ」「プロアクティブ・カルチャライズ」の総体なのだ

なんとなく、それっぽく図示してみた。かなりそれっぽいw


「おま国」について書こう…

…と思ったんだけど、疲れたんでここで一区切り。続きは後の講釈にて。

軽い気持ちで書き始めたはずなのに、なんだか長い文章になっちゃったよ。当初は、初期ラチェクラと最新のラチェクラ(パラレル・トラブル)の鶴見的な違いとか、最近やった仕事で自分の色を抑制した話とか、そのあたりをメモっておくだけのつもりだったのに――

そのためには、バックグラウンドにある「プロアクティブ・カルチャライズ」についての考えも説明せねばなるまい!

――なんて思ったのが運の尽き。こんな文章になっちゃいましたとさ。

続きはまたいずれ。

メモ:
おま国~”This item is currently unavailable in your region”
黒岩涙香、久生十蘭
同じ市場内の、年齢性別による「多文化」
原作改変


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?