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秘密は何もない。本当に…。|第1回演出ワークショップの補足説明

代表の弦巻です。

あっという間に「演出ワークショップ」から半月が経ちました。

開催後のレポートがアップされた際、SNSで「近いうちに補足説明の文章をアップしますね〜」と書いていたのが10日前…。

早く補足説明を更新せねば、と思っていたのですが、
で、実際に書いてもいたのですが、
書けば書くほど膨大になり、補足説明よりむしろこっちが本論?のような様相を呈し、どうしたものかと考えあぐねていました。しかしそれでは受講してくれたみんなの中に残る感触もどんどん薄れてしまう、それはいけない!

ということで、ここは!と踏まえておきたい点必要な補足受講してくれたみんなにとってより詳しい説明となるような2点についてだけ、書いておきたいと思います。

その前に弦巻個人の感想と反省

実施した手応えは十分すぎるほどありました。こうした「演出ワークショップ」が求められてることと、やる意義はありありと感じました。

受講生からの質問を通して、初めて「演出」という言葉に出会った時に、どのくらい捉えどころのなさに悩んでしまうか、そんなことも改めて感じました。そうだよなあと思うことしきりでした。

それとは別に、これは実施後の受講生アンケートに同じくらい多くあったのだけど、「もっと自分の演出を見て欲しい」という声が上がりました。これは想定より多かった。

時間と場所さえ許せば、参加者全員の演出プランを吟味出来るくらいやりたかった。今回は2チーム、つまり2演出(=ふたり分)についてだけしか話すことができませんでした。(もちろん全員で討議をしましたが、何度も検証を重ねるというより、議論し1つのプランに絞る段階でタイムアップとなってしまいました。)

これは正直想定以上だったので、反省として次回に改善をすべき点です。逆に言えば、そうした「自分の演出」を持っている人向けへのワークショップも行う意義を感じました。そのためには環境が大切。予算と、時間、期間が問題です…。でもやるけど。必ずやるけど。

さてその内容に関しては劇団員の佐久間からレポートを先日上げてもらったので、弦巻からはその補足説明をします。ふう、やっと本論です。

「演出ってなんだろう?」について

ここではよく説明に使う「プレゼントをサプライズで渡す作戦」を例にとって伝えました。

どんな渡し方にするか?そもそもサプライズにするか、しないか。特別にするか、日常を装うか。照明は?音は?舞台は?あなたはどこから現れる?または現れない?何か言う?何も言わないで渡す?

それが演出だと伝えました。その選択が、工夫が演出です。そこにはきっとあなたの美学が、わがままな趣味が秘められている筈です。マニアックな好みが反映されている(?)かも知れません。それが演出だとすると、そのプレゼントこそが演劇、舞台だと伝えました。

そしてここからが一番肝心な点。プレゼントが演劇だとして、その演劇とは何か。

「演劇の定義」について

ここでピーター・ブルックの言葉の引用です。

一人の男がなにもない空間を歩き横切る。それを別のもう一人の人物が観る。演劇が成立するにはこれだけで良いはずである。

ピーター・ブルック『なにもない空間』晶文社(1971)

これを定義としました。
なぜか?やっぱり真実であり、肝心な点であり、若い演劇人の舞台を見ていて気になる点だからです。

非常に美しい言葉で語られてます。詩のようです(実際、詩です)。が、文学的に深読みする必要は全くありません。秘密は何もない(!)。字の通りに読み、解釈すれば良いのです。深読みや、難しく考えてしまうと大事な考えを見落としてしまいます。

これは美しい言葉で、真実であり、正しいとも思いますが、「なにもない空間」が唯一の演劇の解ではありません。なにもない空間でも良いのだから、なにかある空間でももちろん良いということです。つまり「どこでもいい」。

もう一度引用文に戻ります。
「一人の男がなにもない空間を歩き横切る。それを別のもう一人の人物が観る」、演劇はこれだけで成立すると言っています。

ここで大事なのは「歩いてる」でしょうか?「座っている」ではダメなのか?
検証が必要かもしれませんが、自分は座っていても成立すると思います。あるいは寝ていても。ここで外せない要件は「別のもう一人の人物が観る」行為です。観る人は外せない。

観る人がいないと、演劇は成立しない。観る人がいるからこそ完成する。観る人とは誰か?もちろん、観客です。劇場に足を運ぶ観客です。つまり我々自身でもあります。劇場に行ったこと、ありますよね。

以上をまとめると、

「どこでもよくて」「何かしている誰か」を観客が観ている、その時点で演劇は成立する。

つまり、反転させると、

観客が目にしているものは全て演劇である。

と、言えます。もっと言えば、

観客が目にしているものは全て演劇として「成立してしまう」。

これが超肝心な点です。観客が目にしているものは全て。全てです。

全てってどこから?さあ、どこからでしょう。
劇場の入り口から始まってるかも知れない。客席に座った瞬間からかも知れない。そのため前説も、暗転による舞台転換も、開場中のセッティングとして舞台上にスタッフが出てくることも、全て「演劇」の一部となってしまう。

それら全てを見せたい形に、伝えたい形にすることが演出です。

観客が自分たち制作側だけが知っている開演タイミングからを「演劇」と認識するかどうかは分かりません。よしんば、認識してくれるとしましょう。一度暗転して明るくなったら劇が始まるのね~と思ってくれる観客も確かにいます。
しかし、そうじゃない人もいるかも知れない。

この区切りを観客にはっきりと伝える、逆にあえてぼんやり曖昧にさせる、そこから演出はすでにスタートしているのです。

「フィクションとして舞台上で完結させたい、そのためにきっちり区切りを意識させる」もあるでしょう。
「舞台を生活の延長線上に感じてもらいたい、そのために線引きを全く作らない」もあるでしょう。
「夢の中にいつの間にか迷いこんでいる体験をさせたい、だから区切りをいつの間にか跨ぐような導入・終幕にしたい、なのでカーテンコールもなし」もあるでしょう。

「これは演劇だから」と甘えている点はないか。今までの演劇の形式に、それに親しんできた観客の慣習に、無自覚に寄りかかってないか。

そこまで厳しい言い方をしなくても、先っぽからお尻まで演出を施してるか。美学と言っても良い、あなたのわがままを詰め込んでいるか。観客が目にするであろう全ての空間、瞬間に。だって観客が目にする全てが演劇なのですから。

このことが今回補足として伝えたかった一番肝心な点です。

そこから考え出せば、「空間」「ミザンス」「転換」「効果」の4要素にマニアックな好みやわがままな趣味が反映されていくでしょう。そして徐々に、無意識の内側に眠る「演出論」を掘り起こしていくことになるでしょう。たとえ最初はぼんやりした好みだとしても。

だからこその4要素でした。あの4要素を考え抜いたなら、舞台全体のかなりの部分、演出を施したと言えるんじゃないか。そう考えてワークショップのメニューとしました。

難しいことはないのです。ほとんどは根気です。

以上がちょっと演出論的な補足でした。実際のワークショップではもう少し具体的な技術論や手法について説明しました。そっちの充実を望む声も多かったです。これも次回への課題です。

ただ、そうした技術を選択する根拠となるような考えの立て方、それをこの文章ではより伝えたかったのです。

次回のワークショップは規模を大きくして、「初手から学びたい人向け」「自分の演出を批評検討してもらいたい人向け」の2コースが実施できるように準備していきたいと思います。

すごく楽しい二日間でした。それでもものすごい疲れた二日間でした。

参加してくれた皆さん、本当にありがとう。



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