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弦巻楽団という「実験室」

秋田大学教育文化学部(2018年執筆時所属 拓殖大学北海道短期大学保育学科)の保坂和貴先生より、弦巻楽団を解説された文章が寄せられました。

弦巻楽団の取り組みを「実験」と表し、本公演だけでなく講座や市民劇団とのコラボレーションについても言及してくださっています。

弦巻楽団という「実験室」

弦巻楽団を一言で言い表すならば何か。ウェルメイドな作品、テンポの良い台詞回し、古典の尊重、その他さまざまな評がある弦巻楽団について、演劇評論家やコラムニストのように気の利いた鋭い文章を書けるわけではないが、自らの立ち位置である「発達」の研究者という視点から、何処に魅了され何に惹きつけられているのかを書いてみたい。

浮かんだ言葉は「実験室=ラボラトリー」。弦巻楽団、それは、演劇が演劇として存在することの意味を探求するための実験室。生身の人間同士が言葉と身体と道具を駆使して「演じる」ことで何ができるのか、その場に居合わせた観客とともに何を生み出すことができるのか、演劇や舞台という場の存在意義と可能性をさまざまな実験によって掘り下げ、あるいは押し拡げようとしているのが、弦巻楽団であるように思う。

これまでいくつかの作品を観劇し、またときに稽古場を覗き、創作過程を見せていただいたなかから、弦巻楽団がどのような実験を行なっているかをまとめてみよう。

実験其の一:一人ひとり「同じ」だけれど「違って」感じられるように

弦巻楽団の実験のひとつ、それは「作品を通して伝えたいメッセージを観客に伝えつつ、けれども一人ひとり違った見方も確保する」という両立が難しい課題へのチャレンジである。

私にとってシアターZOOでみた『四月になれば彼女は彼は』は大きなインパクトであった。弦巻作品のなかでも、私にとって群を抜いて印象に残っている作品である。小説や戯曲などの作品は、ふつう何か大きなテーマなり伝えたいメッセージがあって、それを構成や表現の技巧によって伝える、と思っている人が多いだろう。現代演劇はそのような大きな物語ではなく、当たり前の日常を切り取り、そこで繰り広げられる人のあり方や心の機微を感じさせる作品が多いと言う。この作品も、いわゆる現代演劇の一つではある、しかし、何かが違った。

岸田國士の『紙風船』をモチーフとして展開する舞台。『紙風船』の稽古をしている男女の何気ない会話の繰り返し。戯曲としてまた演出として巧みに織り込んだ「反復」が、観客を一義的な理解へと向かわぬように、かといって拡散するのではなく、方向は同じくして多様な解釈を促すように作られていると思われた。「意味の重層化」と言えば良いのだろうか、あるいは「意味の拡散」。無味乾燥な台詞回しに怖さを感じたり、同じ台詞で今度は笑いが込み上げてきたり、感情的な話し方がかえって冷静に見えたり、と、同じ場面が、繰り返しのたびに違って見えるという不思議な時間であった。

そして、複数の視点の交錯。演じる役者2人と『紙風船』の夫婦、4人のそれぞれの視点が、繰り返しの中で折り重なったり、増幅したり。共感・共有できる部分、共通に感じ取ることのできる部分があり、しかし同時に一人ひとりの経験や感じ方・捉え方で、別のように見える部分もある。「あそこをわたしはこう感じた」、「いや、わたしはこんなふうに思った」、「で、あのときはなんであんな風に」、などと舞台が終わった後、誰かの視点に立ってそのようなことを話したくなる作品であった。

おそらくこの作品の以前と以後で、これまで弦巻氏が書いてきた—若いころに書いてきた—作品群は、また違った顔を見せることになる、そういう転換点となる作品だったのではないだろうか。作者が思い描く戯曲のメッセージを、役者を介して客席に届ける、という方法でなく、作者と役者と観客がとともに作品の「世界」を創造するという方法。共感したり感情を揺さぶられたりする場面は一人ひとり違いつつ、けれども全体として作品に対して共通したメッセージを読みとることができる。そういう劇作の方法を、確信をもって、用いはじめたのではなかろうか。

実験其の二:観客を舞台の上に連れて来る

弦巻楽団の2つ目の実験は、「観客を舞台の上に連れてくる」方法の探求である。弦巻氏はしばしば稽古やブログにおいて「観客が舞台の上に上がってくる」という言い方をしているが、弦巻楽団の特徴と言われる早口にも思える台詞回しや余分な感情を削ぎ落とした発声などは、そのための一つの方法である。役者同士のやりとりを、ときに迅速に、あるいは緩やかに、または間を設け、そうやって過剰なくらい微細にコントロールすることで、観客を舞台上の役者同士のやりとりへと巻き込んでいく。弦巻楽団の作品を見た人は、あたかも舞台で進行する物語の一員であるかのような、あるいはやりとりを覗き見しているような、そのような感覚になることだろう。稽古場は、観客が舞台に上がれるようにさまざまな試行錯誤を繰り返す緻密な実験の場なのである。

さて、そのような台詞量とスピード感に目がいく弦巻楽団の作品ではあるが、真骨頂は「静けさ」にあるというのが私の仮説である。演出の際「グッとくる」と弦巻氏が表現している瞬間、そのときには静けさが訪れる。動作もある、台詞もある、しかし、それが際立つぐらいに静かな瞬間が訪れるのだ。私がそういう場面に出くわし、そのことを自覚したのは、苫前町民劇『結婚しようよ』の稽古場。弦巻氏が台詞の話し方を指示し、いくつかの修正を施して臨んだ稽古のなかで、大きな声を発しているわけでもないのに、それでもスーッと声が響いてくる、張り詰めたような、でも落ち着いた、そんな時空間になる瞬間があった。

それは、心理学者チクセントミハイが「フロー」と名付けた現象であったのだと思う。「フロー」、ときに「没入体験」とも訳されるこの現象は、極度の集中状態になったときに、客観的な時間の流れと主観的な時間の流れが異なること、たとえば、ボールが止まって見える、瞬く間に時間が過ぎる、などの現象を指し示すために生み出された考え方だ(※日本では「ゾーン」という概念の方が馴染みがあるだろう)。弦巻氏が、その作品を通して、舞台に観客が上がってくるように、しかもグッと来る瞬間を創ろうとする方法、それは「フロー」を劇場に現出させようとする試みではないかと私は考えている。

だが、これが簡単には成立しない。観客の何気ない咳払い一つで崩れてしまうこともある。役者同士のその日の空気感によって演出家の予期せぬところで生じることもある。作品の構造、演出、俳優たちの演技、そして観客(もちろんそれを支えるさまざまなスタッフも含む)、それらが巧みに重なり絡み合うときに、「フロー」という現象が生じる。ただし「フロー」が生じるためには、極度の集中と緊張を要する。芝居の時間すべてにおいて観客に集中力を要するのならば、それはもはやエンターテイメントではなくなるだろう。観客の多様な感受性を担保しながら、ここぞというところで舞台の一点に引き込む、そういう時間と空間づくり、どのように「フロー」を現出させるのか、それはまさに実験と言うに相応しい。

「フロー」が生じたとき、人は強くその世界に動機付けられるとチクセントミハイは言う。いま・ここで役者と観客が戯曲に導かれ、その世界に没入し、そしてともにその世界を作り出した、そういう感覚が、明日に誰かを、明日の自分を意味付ける活力になる。その空間を体験した人は、そこでの時間を、芝居の話を誰かに伝えたくなる、また物語を深読みし、誤解し、そうやって自分の人生の意味を厚みのあるものにしていく。「フロー」を作り出す方法の探求、それが弦巻楽団の実験の二つ目の方法である。

実験其の三:全ての人が役者になるための方法

弦巻楽団による第三の実験、それはプロかアマチュアかを問わず、老若男女を問わず、健常であれ障がいをもつ者であれ、全ての人々が舞台に立ち、演じることができる、そういう「方法」の探求である。

俳優の持つ力量を、私たちはその個人の才能、言葉の元の意味でタレントに求める傾向がある。名だたる名優がいるのは重々承知、しかし、弦巻氏が模索しているのは、どのような人であれ、舞台の上に立ち、物語を作り出すことのできる「方法」である。

その試みが探求されているのが、弦巻楽団による「演技講座」であり、あるいはさまざまな市民劇団とのコラボレーションである。なかでも、その試みにひとつの形が見えたのが苫前町民劇であった。苫前町民劇の10周年として上演された『結婚しようよ』、キャストだけでも30人以上、スタッフまで入れれば40人を超える大所帯。普通に街で暮らす人々が集い、演劇を作る、そこでその「方法」は積極的に用いられ、結果として一つの劇的な時間と空間を生み出した。

苫前町民会館の観客席はまさに結婚式会場、ウェルカムボードで迎えられ、出演者による座席案内。物語が始まると、そこは結婚式会場の楽屋裏、結婚式に出ないと閉じこもった父と新郎新婦、さらには家族や友人、結婚式スタッフまでを巻き込んで展開するコメディ。数々の人々のやり取りの中に、観客も巻き込まれていった。観客席で、ある者は笑い、ある者は怒り、ある者は涙し、そうして各々が一喜一憂しながら、物語を見守り、応援し、会場の一人ひとりがそのなかの当事者となっていったような感覚が生み出されていた。

実は、それぞれの場面には丁寧な仕掛けがしてある。人のやり取りの動線、道具や空間配置は、緻密に組み上げられている。膨大な仕掛けがちりばめられてはいるが、その仕掛けに共通する特徴は何か。それは「自然であること」。弦巻氏の演出の方法の根底にあるのは、誰もが当たり前に日々していることを、あえて当たり前にやる、ということである。

もう少し丁寧に言うと、「誰かが話し、それを誰かが聞く」。その当たり前のことをきちんとしよう、ということである。例えば、演劇というと、存在感のある俳優が、舞台のセンターに歩いてきて、客席を一望し、「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」と、客席に向けて感情を爆発させる、そんなシーンを思い描くことのではないだろうか。しかし、人はそのように話さないし、そのように発せられた言葉は耳には届かない。センターでいいセリフを語るのであれば、それ相応の空間配置や人物配置を組み立てる必要がある。が、それは劇的ではあっても、自然ではないのだ。

自然にやりとりをすること、それ自体が既に十分不自然で、劇的である。日々人がしていることを当たり前のように行うこと、これが弦巻演出のエッセンスであり面白さである。数年前、弦巻氏の演劇ワークショップに参加した際、自己紹介を3分間行なった後、それを同じように再現する、という活動を行なったことがある。あとからVTRを見て、ようやく事の重大さに気づいた。再現された2度目の自己紹介は、とても劇的で、自然に見えたのだ。

平田オリザ氏も、負荷をかけると自然な演技になることを指摘しているが、もう少し違った角度からこのことを考えて見たい。最初の自己紹介、それはあまりにもノイズや即興にあふれていて、むしろ流れを読み取りづらい印象を受けた。「誰かが話し、誰かがきく」、そのような「やり-とり」というのは実は日常ではなかなか起きていない。会話の途中にわりこんだり、口ごもって話をまた一から繰り返したり。(会話分析という社会学の一分野がここあたり詳しく研究しています。)それにもかかわらず、会話に参加した一人ひとりは、一つひとつの順番、「話し−聞く」が連鎖しているように思っているのである。(当事者の一人として、私もそう言う順番で会話しているものだと意識していた。)

意識の上では自然なやりとり(会話)と思っているものは、しかし実際は即興とノイズに満ち溢れたやりとりである、ということ、このずれこそが演劇という想像上の、虚構の空間を面白くするポイントなのかもしれない。私たちが普通のやりとりだと思っていることを普通に意識してやりとりするだけで、日常のやりとりとは違う、純化された演劇的なやりとりになる。それらが折り重ねられ、積み重ねられ、「誰かが話し、誰かが聞き」、そのバトンを繋いで行くと、そこに物語の世界、舞台の作品の世界が現出してくるのではないか。

だから、弦巻氏の作る舞台に、強烈な個性は必要ではない。が、しかし、それでも弦巻氏の方法を得心した人が振る舞うと、そのひとの存在感が際立ち得る。自らが先陣を切ってその演技によって存在感を示すのでなく、会話を中心としたやりとりの連鎖のなかに身を置き、そのなかで身の立て方を示すことのできる俳優は、やはり目がいってしまう。弦巻楽団が求めるプロの俳優の姿というのは、流れに身を委ねつつ、そのことによって存在感を示すことができることなのかもしれない。

いずれにしても、タレント、才能、存在感、ではなく、あたりまえの日常のやりとりを面白いと思え、日常のやりとりのように自然に振る舞えること、それが可能であるならば、どのような人であれ、舞台を作ることができる、それが弦巻楽団の一つの方法なのかもしれない。

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この一つひとつの実験は、どれも舞台の存在意義に関わるものである。テレビでもなくラジオでもなく、劇場という場所に足を運び、あるいはある場所に集い、そこで俳優と観客とが身体を付き合わせることで生み出されるもの、作品からメッセージを受け取りつつ、その世界で何事かを読み取り、見出しその虚構の世界に没入していく体験。作品の世界の一員になったような感覚、それがのちの自分の人生をなんらかのかたちで彩りを与え、新たな意味を吹き込んでくれる糧になる。自分がしたくてもできなかったこと、取り返しのつかないこと、喪失、別れ、そういった現実の苦悩や生きることの重みのなかで、それを乗り越えるための創造的実現や視点の変化、そういったものを舞台は与えてくれる。その場に居合わせた人は、役者であれ観客であれ、今の自分を超え出て新しい自分と出会う、つまり「発達する」。だからこそ、ひとは舞台を、演劇を求めるのだろう。

弦巻楽団による壮大な「実験」は、まだまだ続く。

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