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末期ガンの肉親の看取りを経験して感じたこと

こんにちは、つるこめまんじゅう🌀です。
妊活編を書いた直後ですが、最近の出来事を忘れないために、実父の看取りについて書きたいと思います。

3年前(2018年9月)に肺腺癌が発覚、その時は既にステージIV(4)でした。
治療しないでありのままを受け入れると言った父を、家族が「望みがあるのであれば治療をして欲しい」とお願いし、治療をしてくれました。

癌のステージとは?

ステージ0
癌が上皮細胞にとどまっており、リンパ節への転移がない

ステージI (ステージ1)
癌が少し広がっているが、筋肉層で留まっており、リンパ節への転移がない

ステージII (ステージ2)
リンパ節への転移はないが筋肉層を超えているor広がっていないが若干リンパ節への転移が見られる

ステージIII (ステージ3)
癌が広がっており、リンパ節への転移がみられる

ステージIV (ステージ4)
癌が他の臓器などへ転移している

治療方法は?

0〜3にかけては手術療法で取り除き、化学療法と並行していくのが一般的だそう。

父の場合は肺の中でも転移が見られ、手術は難しく、化学療法を中心に治療をしました。
他の臓器が元気だったので色んな抗がん剤を試す事ができました。
どの薬も良く効いて、進行を抑えたり、癌を小さくしたりしてくれました。

最初の抗がん剤はアリムタとシスプラチンを併用し、さらにアバスチンを加えた3つの薬
副作用としては、気持ちが悪くなったり、吐き気がしたり、出血しやすくなったり、白血球が少なくなったりがあるようです。

テセントリク
ドセタキセル(抗がん剤、髪の毛が抜ける)+サイラムザ(分子標的薬)

他にもいくつか試しましたと思いますが、わかるところだけ載せました。
また、免疫チェックポイント阻害薬という薬も使いました。
これが大変よく効きました。

緩和治療への切り替え

色んな抗がん剤を試し、どれもしばらくは効果があり、なんと3年も抗がん剤治療を続けながら在宅勤務で働き続けることができました。
しかし、やはり効果がなくなってきたため、抗がん剤治療を辞め、緩和治療に切り替えたのが2022年2月のことでした。

その後在宅勤務を続けながら、療養しつつ、辛い時はオキノームとアセトアミノフェノンを飲んでいたようです。

それでも早朝の散歩はほぼ欠かさず行っていたと思います。

酸素吸入が必要になり、介護認定の見直し(要支援1は2021年12月ごろ取得)

父の退職のお祝いと家族写真撮影を兼ねて、コロナ禍の合間に久しぶりに家族で集まりました。

腹膜への転移

2022年3月に長年勤め続けた会社を退職、やりきった感をいっぱいにした顔をして、4月からは大好きな趣味三昧!と楽しみにしていた矢先、
激しい腹痛で救急搬送。
虫垂炎との診断で、癌と関係なくてよかったとホッとしていましたが、
癌の腹膜への転移だったことが発覚
そこから1ヶ月弱ほど入院をしていましたが、本人が自宅に帰ることを強く希望していました。
母はまだ働いていたので、担当ドクターからは自宅に父1人なることがあると自宅へは帰せないと言われており、
姉が「私が仕事を休んで面倒みるから、お父さんを家に帰してあげて欲しい」と名乗り出ました。
兄と私も仕事に都合をつけて帰れる時は面倒を見ることになりました。

在宅医療

ちょうど緊急搬送される前に、自宅に医療用ベッドと酸素吸入を導入していたため、在宅医療での準備は大体整っていました。

医療用ベッド
点滴棒
酸素吸入器
介護ノート
訪問看護
訪問診療

退院の日

病院のたくさんのスタッフ方が出口で手を振って見送って下さったそうです。
もう戻ることはなく、最後のお別れという意味だったんだなと、後になって母が話していました。

念のため介護タクシーを呼んでおいたそうですが、階段の上り下りも息苦しさのためできず、車椅子に乗せられたままの帰宅となりました。
本人もこんなに動けないと思わなかった…と肩を落としていました。

退院1日目〜3日目

実家へ
兄姉は割と実家の近くに住んでおり、私は実家から離れて他県で暮らしています。
下の子の授乳中ということもあり、長くは滞在できませんでしたが、旦那さんの両親に不在の間はお願いして来てもらいました。
1日目も子供たちの寝かしつけ後に出発し、終電で夜中の到着でした。

家に帰ってからは割と表情も明るく、いつものように朝ドラを観たり、スマホのゲームをやったり、食事の時間には食卓で家族と食事を共にしていました。

虫垂炎のため、お粥や具なし味噌汁、ゼリーなど流動食のようなものばかりでしたが、
離乳食の延長で、出汁を取ったりお粥の水加減の調節等少しは私も役に立つことができました。
薬膳の教室で教えてもらった新玉ねぎのポタージュもたくさん作って実家に送りました。

訪問看護の方は私の父に大きな声で話しかけていて、おじいちゃんに対して話すみたいだなぁと感じましたが、よく考えたらもうおじいちゃんだった。(66歳)
身体を拭いたり、点滴を交換したりしてくれていました。

退院3日目、お昼過ぎに私と交代の兄が到着し、子供3人が揃いました。4人で写真を撮りました。
食卓を囲みながら家族で少し話をしていたら、父が急に、「子供たちに囲まれて、幸せだ」と言ってくれました。
私が家に帰ろうとした時、母が仕事から帰ってきて全員が揃いました。写真を撮りました。
この頃はまだ食事も摂れており、トイレも自分で歩いて行くことができました。
夜痛みが出ることが多かったため、オキノームを飲んでから寝るように

4日目〜8日目

私は仕事と家族の都合で帰れず、グループLINEで父の様子が来ているのを確認していました。
足のむくみが気になっていましたが、姉の献身的なマッサージで改善。
40回目の結婚記念日があり、子供たちから新しいペアのバスローブを贈りました。
嬉しそうに2人で写真を撮っていました。
このぐらいから麻薬の効果でぼんやりしたり朦朧としたりするようになり、本人もショックで落ち込んでいたそう。
兄が法律事務所に相続の件の相談に
母が今の家に住み続けられるように、「全て母に譲る」と、一筆書いてもらった。
父の姉妹が隣の県から面会に。両親も存命ですが、高齢のため移動が難しく断念。

9日目

トイレに立てなくなり、訪問看護の方に浣腸をしてもらう。本人もかなり落ち込み。
ポータブルトイレの設置を検討
オキノームが効かなかったらソラナックスに
訪問看護を1日1回から2回に変更
ベッド用テーブルと吸い飲みを手配

10日目

夕方は驚くほど元気で、兄にテレビの位置の変更や配線関係を指示出し
しかし、夜間に苦しくなり、訪問看護を呼んだ。会わせたい人には連絡するようにとのこと。
もともと睡眠時は無呼吸症状がありましたが、起きている間に無呼吸症状が現れる。

11日目

連絡を受けてから帰宅予定を一日繰り上げて実家へ
呼吸数は少なく、会話はほとんどできない状態。
それでも意識ははっきりしていて、頷いたり首を振ったりと意思疎通はできる。
夜、父の手をさすりながら、
「お父さん、小さい時お風呂に入れてくれたよね。ありがとう」
「お父さんの好きな作曲家ってマーラーとブルックナーだっけ?」
「私、お父さんの子供で良かったよ。ありがとう」
というのを伝えました。聞こえるか聞こえないかの声で「(そんなこと)あったね」「そう」「ありがとね」と返事を返してくれました。

空気を取り入れようとしているのか、口をパクパクするような感じ。
後でわかったことですが、下顎(かがく)呼吸というもので、脳が酸素不足になると体が酸素を取り入れようとして起こるそうです。
口が乾いてしまうのでくちびるにワセリンを塗ってあげていました。
夜は呼吸が止まってしまうのではないかと心配でずっと付きっきりでした。
痰が絡むようになってきて、吸引器の使い方を教えてもらいました。
カテーテルを繋げて喉の痰を吸い取るんですが、
変に喉に突くとオエっと苦しそうになるので結構難しかったです。
歯磨きのやりかたも教えてもらい、お口スッキリしました。
ドクターからは今週いっぱいが厳しいでしょう言われました。この日は水曜日でした。

食事が取れなくなってからは鎮痛剤(医療用麻薬)は飲み薬ではなく舌下錠に変更されました。
辛いならお薬飲む?と聞いても何度も首を振って拒否する父、
夜に来てくれた訪問看護師が、
本人のためにお伝えするか迷ったのですが…と涙ぐみながら
どうやら、お薬を飲むと自分が自分じゃ無くなるみたいで、家族と会話ができなくなるのが嫌だから拒否していたそう。
家族で抱き合って泣きました。
父はずっとそのままの父でありつづけたいんだって。

12日目

ポータブルトイレが来て、頑張ってトイレでするも洋服が汚れてしまったり、私や姉の手を借りるのがとても辛そうでした。それでも浣腸よりはよい様子でした。
紙パンツや尿取りパッド、お尻拭きやトイレの消臭剤、オムツの臭わない袋等を買いに朝ドラッグストアに走りました。
おしもの世話なんて毎日子供たちので慣れっこですが、やはり大人のはちょっと違いました。
父は本当は嫌だったんだと思います。でも漏らしてしまうよりはいいと思ったんだと思います。
なるべくオムツという言葉を使わないように、紙パンツ、と呼んでいました。
やはり、父のそんな姿を見るのは親子共に辛いものでした。
兄から連絡があり、仕事で帰れないかもと。
ちょうど電話が来た時、父は久しぶりにスマホのゲームをしていました。
もう手が震えて上手くできないのをサポートしながらでしたが、意識ははっきりしているのだと思いました。(後でわかりましたが、最期の兆候の一つ、「中治り(なかなおり)現象」といって、一時的に状態が回復する現象らしいです。)
兄はその様子を聞いて大丈夫そうだと思ったのか、来るのを辞めようとしていました。

その後、ドクターが来て、後悔しないように、とおっしゃって帰りました。
やはりいつが最後になるかわからず、
素人の私にさえ、命の灯火が今にも消えてしまいそうなのがわかりました。
兄にLINEを打ちました。
「ドクターが昨日言っていた今週いっぱい、の意味は2.3日ぐらいかもと言うことでした。
さっきちょうど電話の時にたまたま回復していただけで、かなり厳しい状態になってきているように、私たちから見ていてもそうみえます。
後悔のないように、とドクターから話がありました
できれば家族で過ごす方がいいかな、と思ってるよ。
もちろんそれぞれ事情あると思うけどね。
私もまた乳腺炎になりそうで一度帰ろうか悩んでるけど、多分1日でも帰ると、私が戻ってくるまで、お父さんもたないかもと感じてる…」
兄はなんとか仕事を切り上げてくれました。

ただいるだけでも、後少しだけかもしれないから、できればお父さんに家族の時間を過ごして欲しいんだ。無理言ってごめんね。

兄が到着した頃には痰が絡んでゴロゴロ言うようになっていました。
姉と私で痰吸入器を使って取り除こうとしましたが、上手くできず、悩んだ末、訪問看護を呼びました。(後でわかりましたが、これも最期の予兆、死前喘鳴(しぜんぜんめい)でした)

肺があまり機能していないため、看護師さんが馬乗りになって肺を押して人工的に呼吸させることをしながら、痰を吸引してくれていました。私は強くやりすぎなんじゃないかと思って見ていましたが、今までにもやった事があるそうで、一般的なケアだそうです。
痰が取れたなと思ったら、
父の息が止まりました。
お父さん!お父さん!息して!まだだよ!お父さん!お父さん!
必死に叫びました
その時私は父の手を握っていて、まだ脈がありました。温もりもありました。
それでも父は戻って来ませんでした。
看護師さんもずっと声かけしてくれていました。
姉と私以外にもちょうど、母と兄もベッドのそばにいました。
家族全員に囲まれて、父は息を引き取りました。
看護師さんは父の目を閉じました。
私は事実が受け入れられず、嫌だ嫌だ、こんなの現実として受け入れられないとなり隣の部屋に逃げ出して大声で叫びました。
こんなことって、
辞めて欲しいことを嫌だと言っても辞めてくれないどうしようもない現実を受け入れられませんでした。
お父さん、よく頑張ったね、本当にお疲れ様。と思う気持ちもありました。

父がいちど離れた家族をもう一度集めて家族でいさせてくれた。
家族の大切な時間を作ってくれて本当にありがとう。

姉や兄といろんな話をしました。
昔こんなだったよね、あの時こうだったよね。
実はこんな風にに思ってたんだ、なんてことを。
まさか自分が大人になってから、家族と再びこんな時間を持てるなんて思いもしていなかった。
父は私たちにそんな時間を作ってくれたんだと思いました。
正直、姉は父の介護に献身的過ぎて、精神的にも体力的にもかなり限界が来ていたのではないかと思います。
父はこれ以上お互いに辛い思いをしないようにと、父の優しさだったのかもしれません。
最期までかっこよくて優しい父でいてくれました。

長くなってしまったので一旦ここまでにします。
たぶん、お別れ編へ続く…

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