アーリーサマーのセンテンス(初夏の文章)

『人生』を何かに喩えるとしたら、何が最適でしょう?

・「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまで中身は分からない。」(映画:フォレストガンプ)

・「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。しかし重大に扱わなければ危険である。」(作家:芥川龍之介)

・「人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇。」(喜劇俳優:チャーリー・チャップリン)

このように人生を何かに喩えた例は枚挙にいとまがありません。

結局のところ、何にだって喩えられるのでしょう。その人の人生はその人のもので、代わりに生きることはできません。「しまったしまった島倉千代子」でおなじみの、歌手・島倉千代子さんの代表曲『人生いろいろ』が、もしかしたら一番真理に近いのかもしれません。

ただ、今も昔も生きている限り、いろいろな人生がいろいろな人生と交錯します。インターネットがインフラとなり、SNSが日常的なツールとなっている現代では、その交錯点は爆発的に増えたことでしょう。

閑話休題。

Twitterを本格的に始めて1年が経ちました。

小心者で臆病な私は、世事については一切呟かずに、無駄で無益で無稽なツイートばかりしています。それでもいつの間にやら、顔も名前も知らぬ方々と交流が生まれました。

その交流は私の生活に癒しと笑顔を与え、ささやかな楽しみと共に張りのある彩りとなり、人を想い、心を寄せる場となりました。

たった140字の、人との人生・生活との交錯点。

しかし、やがていつしか私の中に、

「もっと長い文章を綴ってみたい。」

「できうる限り正確に自分の思考や感じたことを表現してみたい。」

という願望が生まれました。

私が私の人生の中で私なりに得た経験や、諦めや、工夫や、考え方が、どこかの顔も名前も知らない誰かのお役に立つ、そんなありがたいことがあるかもしれない、と思ったからです。

そしてそんな中、ある記事に出会いました。

この記事は、現実生活はもちろんTwitter上でさえあまり交流のないお二人が、それぞれに5つの質問をぶつけあい、回答するという企画のもと、インク氏が回答したものです。

恥知らずで愉快な企画だなと思うと同時に、こういう流れにこそ流され、井の中の蛙が大海を見るために漕ぎ出すのも一興だと思い、インク氏に打診・ご快諾を得て、初めてnoteを書くことになりました。

インク氏とのわずか数通のDMでの打ち合わせで、私とのコラボ企画の方向性が次のように定まります。

『私の描いた絵に文章をつける。』

インク氏の非凡な文章力と、私の特異な画力とのコラボレーションです。


大分前置きが長くなってしまいましたが、以下、私が描いた2つの絵と、それらに込めた作者としての意図を、インク氏のアンサーブログとしてお楽しみいただければ幸甚です。


【作品タイトル】ノマドヤ

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『ノマド』。その語源はフランス語の『遊牧民』だそうだ。

その語源の示す通り、彼らは時間と場所に縛られない。

日中の喫茶店で彼らを見かけると、まるでそこに『いる』ことが一つのインテリアのように、違和感なく空間に馴染んでいる。ただ、その光景はどこか無機質だ。

いつからだろう?喫茶店の席に個別の電源が取り付けられ始めたのは。

いつからだろう?喫茶店の一人掛けの席が戦場として使われるようになったのは。

私は彼らを見るとどことなく気後れを感じてしまう。

私が喫茶店に入るときは、大抵外回りの営業から逃れて、束の間の休息を味わう(要するにサボる)時だ。彼らの後ろ姿はそんな私を嗤い、責め立てるように見える。

「おやおや。今は仕事なんてどこでもできる時代ですよ?」と。

私は、彼らの戦場で上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。もういっそ一思いにやってくれと言わんばかりに。そのくせ視界の片隅に彼らを認めつつ、脱力しきれない自分の不甲斐なさに情けなくなる。

彼らの姿から『ドヤ感』を感じてしまうのは、きっと私が彼らに抱いている劣等感からだろう。時間や場所の制約を受けず、スペックの高いPCのポテンシャルを最大限に引き出して使いこなし、『確信』を燃料に『効率』という道に沿って前進する彼らが眩しいのだ。

未だ完全週休二日制ではなく、時短業務もテレワークもどこ吹く風の昭和体質企業に勤め、自分の力ではなく『働き方改革』というムーブメントに一縷の望みを託して毎日を塗り潰していく…。そんな自分にとって、彼らが眩しくないわけがない。

もしも私が彼ら遊牧民の中に飛び込んだら・・・。そう夢想せずにはいられない。この絵は、もし私がノマドワーカーになったら、と考えて描いたものだ。

私には残念ながらノマドワーカーと呼ばれる知り合いはいない。だから彼らの愚痴を聞くこともなければ悩みを相談されることもない。

もしかしたらノマドワーカー同士の果てしない競争があるのかもしれない。「今日の俺は〇万字のブログ書いたぜ?」「俺なんてかなり分かりやすい図解を入れてやったぜ?」そんな世界だ。

そこにはきっと特定の相手に向けられる『ドヤ』があり、その『ドヤ』が新しい『ドヤ』を生み出す。そう、まさにドヤの連鎖。ノマドワーカーはいつかその連鎖を断ち切らなければならないと直感的に知りつつ、『ドヤ』が指数関数的に増えていく様相を傍観するしかない。『ドヤ』に対し『ドヤ』で返せないということは、すなわちノマドワーカーとしての敗北を意味するからだ。

だがそこでちょっと立ち止まって考えてみてほしい。

仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタ(釈迦)は、6年に渡る苦行の末、苦行で悟りは得られないと断じ、菩提樹下に坐して悟りを開いた。その苦行の終わりの時、釈迦に乳粥を施した少女が『スジャータ』。そう、あの『褐色の恋人・スジャータ(某コーヒーミルク商品)』の由来となった少女である。釈迦が生病老死という人間の根幹に関わる苦しみを見つめて輪廻からの解脱を得たように、ノマドワーカーたちも『ドヤ』を見つめることによってその連鎖から脱することができるのかもしれない。釈迦にスジャータがいたように、ノマドワーカーには喫茶店のお姉さんがいる。

『ドヤ』の応酬に疲れ果て、その戦場から脱して一杯のコーヒーを味わった時、そのコーヒーはまさ滋味あふれる飲み物となるだろう。釈迦の味わった乳粥のように。最初に注文したきりの冷え切ったコーヒーを味わうことは、ノマドワーカー以前に人として豊かな生活と言えるのだろうか?

「あなたのドヤの先にこそ、真に豊かな時間がある。」

私がこの絵を描いた意図は、ここにある。

もし、人生がチョコレート箱のようなものであるならば、どんな中身か分からなくても、淹れたてのコーヒーはあった方がいい。

そうして私は今、見事に冒頭の伏線を回収できてドヤっている。


【作品タイトル】自撮りの罪

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『子曰く、自撮りする事なかれ。これ即ち承認欲求を隠す事能わず。況やインスタをや。』

先人はこう言い遺し、自撮りを厳しく戒めた。しかし、2019年の自撮りに関するアンケート調査では『自撮りをしたことがある』『これから自撮りをする予定だ』と回答した人は実に80%を超えている。

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私は自撮り自体を否定する立場ではない。

例えば、広義の自撮りに当たる、農産物や加工食品の生産者の顔表示は、消費者の安心感を補強しうるものだと思うし、士業等の堅苦しそうな肩書を持つ人が、自らの写真を公開することによって、親近感を持たれることは多々あるだろう。

私がこの絵に込めた想いは『予定調和自撮りの罪』である。

前述のような、安心感や親近感を与える以外の目的をもって撮られた自撮りは、その性質からどうしても自己承認欲求が写し出される。これはどれほど撮影技術があったとしても拭い去ることはできない。

一例だが、近年よく見られるようになったラーメン屋の店主が両腕を組み、自信に満ちた表情で写る写真を思い起こして欲しい。おそらくきちんとしたカメラマンに撮影してもらっているが、あれも広義の自撮りに分類される。

「この味が分からないなら、あなたの味覚がおかしいのだ!」と言わんばかりの表情は、「分かる人にだけ分かればいい。」という歪んだ承認欲求を孕んでいることが分かるだろう。

そういった自撮り写真から承認欲求が垣間見えた瞬間、私は、眼前に広がっていたあらゆる道が閉ざされ、茫然と立ち尽くす。被写体を褒め称える以外に私が、否、人類が取るべき手段などないのだ。

「きれい!」「かわいい!」「かっこいい!」以外の言葉を投げかければ、空気の読めない人物としてこちらが誹りを免れることはできない。無言を貫けば、やがて二人の間に壁が生じることになる。どれだけ仲のいい二人だったとしても。

私はそれでも被写体にとって相応しい言葉を、自分の紡いだ言葉で贈りたい。しかし世界を敵に回して闘うには、余りに味方が少なすぎる。私はここでダブルバインド(二重拘束)という葛藤に陥る。

そもそも自撮り被写体本人は、視野が狭くなりがちだ。もっとピントを合わせて撮影すべき被写体がそこにあることを見逃している場合が多々ある。鑑賞する側の目が、自撮り写真の奥にある壁や貼り紙等にいってしまうのはそのためだ。

誤解を恐れずに言うならば、自撮り写真よりニャンコの写真の方が数倍価値がある。

かといってニャンコを抱いて自撮りすればいいかというと、そういう訳ではない。

そこに広がる非日常的な景色も、豪華な食事も、被写体本人の日常の一コマも、自撮りという構図によって芸術的余白を損なうことになる。即ち、鑑賞する側の想像力や感性を亡失せしめるのだ。

「自撮りは時として、あなたの世界から可能性を奪う。」

私がこの絵に込めた意図はこういうことだ。

もし読者の中に、今まであまり深く考えずに自撮りし、一方的に友人に送ったり、SNSに投稿してきた方がいるのであれば、ぜひこの機会にもう一度考えてみて欲しい。

「自撮りは一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。しかし重大に扱わなければ危険である。」(伏線回収その2)。


ー後書きー

この度、こうしてnoteで駄文を連ねる機会を得ることができましたのは、インク氏、並びにTwitterでいつも親しく、温かくお見守り頂いているフォロワー各位のおかげです。このようにふざけながら思うままに文章を書いたのは、実に20年ぶりです。

昨今、「誰得?」という言葉を耳にします。

誰が得をするのか?私の拙い文章もまさにそういった類のものでしょう。

我ながら思うに、きっと誰も得はしません。強いて言うなら私が得をしました。文章を綴るということは思考の整理にも役立ちますし、何より片時の間、日々追われる雑務から離れることができます。

しかし、そもそも誰かしら得をする前提でないと、人は発信したり行動してはいけないものなのでしょうか?

確かに、私はこの文章を読んでくださった方の、貴重な時間を奪ってしまったかもしれません。私にもそういった経験があります。読み進めたブログが期待していたものとは違っていたことや、新たな知見を得ることは叶わず、旧来の考え方を補強することもできず、ただただ無意味な時間だったこと。

もし小稿をご高覧頂いた読者各位の中で、無為な時間を過ごしてしまったと嘆く方があれば、この記事のコメント欄で最後にこう呟いてみてください。

「しまったしまった島倉千代子」と。

何ともバカバカしく、そして清々しい気持ちで何の役にも立たなかった時間を区切ることができるでしょう。(伏線回収その3)。

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