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『誰がために花は咲く』第七話(第一章 名も無き花~エスターの物語~)

 エスターは薬草園の中にいた。
 そこは緑と水に満ち満ちた心地よい空間だった。あの廃墟の薬草園と何もかもが全く違った。
 ただ同じなのは、あの大きな花弁がついた花が、すっくと天井に向かって何本も生えていることだった。ただ、その花はあの廃墟で見た姿とは少し違って見えた。なぜだろう。エスターはその違和感について少し考えた。

 ――そうだ、色だ。色が違うのだ。ここの花は、赤くない。純白だ。あと、まだ咲いていない。みな蕾のままだ。

 ――だが、これはこれで美しい。

 エスターはそっと蕾に触れた。エスターの心を様々な思いが去来する。幼いころのこと、父のこと、故郷のこと、それから、それから、長い旅に出て、そして、今度はふたりで旅に出たんだった……。

「ヴォーグ……」

 エスターの口から想いがあふれた。最初は涙に濡れ、あのときは泥だらけ、そして今は傷だらけ。そう思いながら、そっと自分の頬にエスターは手を重ねた。思い出したのは、もはや懐かしいぬくもりだった。
 あのいかつい手が、もう、恋しい。恋しくてたまらない。

「汚らわしい口でその名を呼ぶでは無い」

 ……どのくらいたったのか、気が付くと、セヲォンとセシリアが近くに立っていた。女王直属らしい兵士も側に控えている。彼らの目を気にすること無くセシリアはエスターを睨み付けて叫んだ。

「この人殺し! お前さえいなければ、ヴォーグは……!」

 エスターは一瞬戸惑ったが、瞬時にセシリアの意を酌んだ。セシリアはいま、テセの統治者としてでは無く、ひとりの恋敵としてエスターの前に立っていると。エスターは微笑んだ。泣きたい気持ちで微笑んだ。そして真白い花の蕾にすっと手を伸ばした。

「花を護れ!」

 兵士たちが身構える。果たしてエスターは蕾の茎に手をかけていた。薬草園内に緊張が走る。
 だが、周りの光景はエスターには正直どうでも良く、記憶の中に続いて蘇ってきた歌声に心を奪われていた。戯れに口ずさんでみる。

 ながれる みずが そのすえに
 注ぐ うみは 永久とわのうみ
 なにも かもが 集まって
 いつしか 地の果て たどりつく
 おおきな石も
 ちいさな木の葉も
 いきつく先は みな おなじ
 いきつく先で 見るものは
 お前が望む 夢のあと
 お前が望む 夢のあと……

 そこまで歌い終えて、エスターはセヲォンに向き直った。

「この歌の名を知りたい」

 意外な問いかけにセヲォンは戸惑った。

「なんだ、その歌は……聞いたことは無い」
「……テセではよく知られている歌なのだろう?」
「いや、初めて聞いたぞ、そんな歌」

 エスターは目を見開いた。その瞬間、手が蕾から、ふっ、と離れた。次いで、緩んだ体から、エスターは自分の剣が離れ、床に転がる音を聞いた。

「……隙あり!」

 エスターの背後にいた兵士の剣が、その背中を貫いた。
 エスターは自分の血が派手に飛沫を上げて飛び散ったのを他人事のように見つめると、ゆっくりと床に倒れた。続いて他の兵士がエスターに襲いかかろうとする。それをセヲォンの鋭い声が制止した。

「やめろ! もう死んでいる!」

 果たして、薬草園の冷たい床の上でエスターは事切れていた。冷たくなったその背からは止めどなく血が流れ出、床を伝い、土に伝い…そして……。

「……見ろ!」

 誰かが叫んで、薬草園中に生えたあの白い蕾を指さした。いや、もうそれは蕾でも、白くも無かった。気が付けば薬草園の至る所に、血のように赤い、禍々しいまでに赤い花弁が、大きく咲き誇っていた。
 その下に横たわったエスターの死に顔の上に、ばらばらと花の種がはじけ飛んできた。

「……セヲォンさま! セヲォンさま!」

 セヲォンは我に返った。薬草園からは、すでに兵士たちは退き、セシリアもその場を立ち去っていた。
 ひとり残った武官が言いにくそうに、尋ねてくる。

「この賊の死体は、どうしましょうか……?」
「聞くまでのことか?」

 セヲォンの声はどこまでもそっけない。

「他の賊と同じように、いつもと同じだ、城の堀に放り込めば良い」
「……よろしいのですか?」
「何度も言わせるな」

 武官は慌てて引き下がり、その手はずを整えるべく、下男を呼びに駆け出していった。

「エスター、お前は何を知っていたのだ? それとも何も知らずに、ここまで死にに来ただけなのか?」

 咲き誇った赤い花を見ながら、セヲォンはエスターの血に汚れた横顔に語りかけた。だが疑問に誰も応えるものは薬草園にいない。そしてこの世にも遺っていなかった。

「あとは生きている者の仕事か。分かったよ……エスター、それにヴォーグ……」

 そうセヲォンは肩をすくめると、横たわるエスターを残して薬草園を出て行った。

 
 【第1章 完】

いろいろがんばって日々の濁流の中生きてます。その流れの只中で、ときに手を伸ばし摑まり、一息つける川辺の石にあなたがなってくれたら、これ以上嬉しいことはございません。