コハダマグロの恋

ある晩、疲れ果てたよしこは大手商社での長い残業から帰宅しました。家では家事と育児に追われ、心身ともに疲弊している彼女は、もう限界に近づいていました。夫のよしおは同じ商社に勤めるが、家事や育児には全く協力的ではなく、よしこの苦悩は深まるばかりです。

ある日、友人たちとの飲み会の誘いを受けたよしこは、少し気分転換が必要だと感じましたが、子どもたちを抱えての参加は難しいと思っていました。しかし、よしおが「俺が子どもたちを預かるよ、行ってきなよ」と言ってくれたことで、久しぶりに自分の時間を持つことができることに喜びを感じました。

居酒屋に入ったよしこは、そこで魚を扱う料理長のキハダさんと出会います。彼はどこか謎めいた雰囲気を持ちながらも、料理に対する真摯な姿勢が垣間見えました。よしこは彼との会話に心惹かれていきます。

「いらっしゃいませ。お一人ですか？」キハダさんが笑顔で迎えると、よしこは少し緊張しながらも、「はい、一人です」と答えました。

「それなら、こちらへどうぞ。お酒はいかがですか？」キハダさんは丁寧におすすめの料理やお酒を紹介しました。

よしこはキハダさんの話術に驚かされつつも、自然と会話が弾んでいきます。お酒を片手に、よしこは自分の日々の苦悩や家庭のことを話し始めました。キハダさんは真摯に耳を傾け、時折温かく微笑む姿勢がよしこを安心させました。

「家庭と仕事のバランスがなかなか難しいんですよ。特に夫のよしおが、最近はますます自己中心的になって…」よしこは心の中で抱えていた悩みを打ち明けました。

キハダさんは興味深そうに聞きながら、微かに笑みを浮かべて答えました。「家庭と仕事のバランスは難しいものですね。でも、君の家族が幸せになることを願っていると思いますよ。」

その後もよしこは、キハダさんの居酒屋を訪れるようになりました。彼の話術に驚かされつつも、家庭との葛藤も抱えながら、次第に彼に惹かれていくのです。一方で、よしおとの関係はますます冷え込み、よしこの心に虚無感が広がっていきました。

ある日、キハダさんはよしこに自分の正体を明かしました。「私はコハダマグロなんだ。けれど、この居酒屋を経営し、料理を提供することが俺の生きる道だ」と彼は真摯な眼差しで語りました。

驚きと共感が入り混じる中、よしこは次第にキハダさんへの惹かれを自覚していきます。彼の独特な存在が、よしこの心に新たな感情を呼び起こしていくのです。

「君は、ほんとうに不思議な人だね。でも、それが私を惹きつけるんだ。」よしこは微笑みながらキハダさんに語りかけました。

彼の存在が、家庭に刺激をもたらす一方で、よしこの心はますます揺れ動いていきました。家族との葛藤やキハダさんの独特な愛情表現により、彼女の心には選択を迫る難しい状況が生まれていたのです。

ある晩、居酒屋の片隅で、よしこはキハダさんとの関係に悩みながらも、彼との時間を大切にしようと決意していました。キハダさんは独特な魅力を持ちつつも、時折見せる妖しい微笑みが彼の内に秘めた狂気を思わせるのです。

よしこは夫のよしおとの距離を少しずつ縮め、家族との絆を深めることに尽力しました。家族の幸せと自己の成長を両立させようと奮闘するよしこに、キハダさんは対照的な存在として影を落としていきます。

ある日の夜、よしこは居酒屋でキハダさんと再び会いました。彼の眼差しには普段とは異なる狂気が宿っているように感じられましたが、それは彼自身の内に抑え込まれた闇が反映しているのかもしれません。

「君の選択を尊重しているが、俺はいつまでもここで待っている。俺の愛は永遠だ」とキハダさんは冷たく囁きました。

よしこはその言葉に寒気が走るのを感じながらも、彼の独特な愛情表現によって心を揺さぶられました。それは魅惑的でもあり、同時に不気味でもあるのです。

家族との絆を大切にしながらも、彼との交流を断ち切ることができず、よしこの心はますます迷い深みに入っていきました。彼との独特な恋によって、よしこは自分の中に新たな自己を発見し、複雑な感情の渦に巻き込まれていったのです。

それから数ヶ月が経ち、家族との絆はより深まり、よしこは自分自身を見つめ直す時間を持つようになりました。だが、キハダさんとの交流は途切れることなく続いています。

そしてある日、彼はよしこに特別な贈り物を渡しました。それは美しいペンダントで、彼の独特なセンスと魅力が込められているようでした。

「君のために特別に作った。これを身に着ければ、永遠に俺のものになる。俺と一緒にいることを選べ」と彼は再び冷たい微笑みを浮かべて言いました。

よしこはその贈り物に心を揺らすのを感じながらも、自分の選択を固める決意をしました。「ありがとう、でも私は家族との絆を大切にする。あなたとの関係は特別だけれど、私には大切な家族がいるの」と彼女は穏やかに答えました。

キハダさんの瞳に一瞬だけ光が揺れたような気がしましたが、すぐにそれは消え去り、彼は微笑みを浮かべたままうなずきました。

「君の選択を尊重する。幸せでいてくれ」彼の声は冷たくも優しいものでした。

それが最後の再会となりました。よしこは自分の選んだ道を進み、家族との絆を深めていきます。彼との交流は終わったように見えましたが、時折風に揺れるペンダントを見るたびに、よしこの心には狂気と共に切ない思い出が蘇ってきます。

終わり

登場人物：
1. よしこ（よしこ）
　33歳。大手商社に総合職として勤める。夫のよしお、長男のよしろう、長女のよしみとの4人家族。産休、育休を経て仕事復帰したが、日々の業務、家事、育児に追われ疲弊している。キハダさんとの出会いをきっかけに複雑な感情に揺れ動く。

2. よしお（よしお）
　35歳。よしこと同じ大手商社に勤める。自分は仕事ができる人間だと思っており、モラハラ気味な発言が多い。家事、育児はよしこが担当して当然だと思っており、自分が家事、育児をしないことに疑問を持っていない愚かな生き物。

3. よしろう（よしろう）
　5歳。保育園に通っている。よしおに影響され、よしこは無能なのではないかと思っている。

4. よしみ（よしみ）
　2歳。保育園に通っている。よしこが大好き。

5. キハダさん（キハダさん）
　正体はキハダマグロだが、そのことを隠して人間世界で居酒屋を経営している。日々、背徳感を持ちながら魚を捌いている。よしことの出会いをきっかけに、独特な恋心と狂気を抱える存在となる。