承認欲求を掘り下げた結果、生きる方向性が見つかった話

「承認欲求」という言葉は巷にあふれている。マズローの法則によると、人間の欲求は低次元のものから「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」と並んでいる。低次元の欲求が満たされれば高次元の欲求を求めるようになるとのこと。また別の説によると、貧乏な画家が自己表現のために絵を描き続けるような例もあるわけで、低次元の欲求が満たされなくても高次元の欲求を追い求めることもあるそうで、法則を否定する声もあるそうだ。ただ欲求を追い求める順番については諸説あるが、人間がこれら欲求を持っているのは一旦納得することができた。

日本で生活していると、「生理的欲求」「安全の欲求」はほとんどの人が満たされていると思う。そして、子供のころは小学校・中学校・高校・大学という風に集団に所属し、大人になっても会社やアルバイトなど同様に集団に所属する人が多い。フリーランスなどの独立した人々も個々の仕事では何らかの形で人とつながっており、そう考えると「社会的欲求」も満たされている人が大半だと考えられる。

ではその次の「承認欲求」はどうだろうか?小さな子供のころは、親や友達に「見て!」と言って自分の行動や発見したものを知ってもらう経験をした人が多いのではないだろうか?小学校・中学校と進んでいくうちに見るものすべてに興味を持ったりアピールすることはだんだん減っていったと思うが、ほめられるとやっぱりうれしい気持ちがしたと思う。自分の行動が認められ、モチベーションが上がり、また次の行動につながるという好?循環があったのである。

しかし、大学に進学して自由な時間ができたり、社会人になると自分を認めてくれる存在が極端に少なくなって、どこかやるせない気持ちになった人も多いのではないだろうか。また、よく聞く「燃え尽き症候群」というのは、大学や会社に入るまでは周りがはやし立ててくれるから頑張れるのであって、その後自分の足で進もうとするときに支えがないことに気づき、歩みが止まってしまうのも一つの原因かもしれない。となると、常に自分を励ましてくれる人がいないと、人は頑張れないのだろうか?

ここで、承認欲求についてもう少し掘り下げて考えてみようと思う。そもそも承認欲求とはどんなものか考えてみたい。

・自分に対する興味を引きたい
・自分という存在を認められたい
・自分が集団の中で役に立っていると感じたい

「サピエンス全史」でも語られていたように、現代人(ホモ・サピエンス)が他の類人猿より体は貧弱だったのに繁栄できた理由としては、互いに協力する社会性があったためだとされている。となると承認欲求は、自分が社会に対してプラスの貢献をするための本能的な原動力ということになる。なので、承認欲求自体が悪いものであるというわけでは全くなさそうである。

では、承認欲求の満たされ方を考えてみる。先ほど挙げたような周りの人に褒めて認めてもらうことで承認欲求が満たされる例があったが、これはあくまで一つの手段だと考えている。ただ私は、他人に認めてもらうことしか手段にもたないのは心もとないと考えている。理由は以下である。

1. 自分を認めてくれる他者が常に周りにいるわけではない
2. 他人はコントロールできないため、承認される基準が定まらず振り回されてしまう
3. 悪意ある人間が承認者の場合、騙されたり利用されたりする可能性がある

1. については、ライフステージやライフスタイルの変化によって付き合う人も変わるため、時には孤独になってしまうこともあるかもしれない。周りに他者がいてもみんな自分のことに必死だったり、人に関心を持っていないこともありうる。2. については、他人は他人の人生を生きているため考え方や基準が変わるのは当たり前であり、それに自分が合わせようとしてしまうと疲弊してしまう。昨日良いと言われていたことを今日になってやっぱりダメだと言われてしまうと、混乱して身動きが取れなくなってしまうのである。

じゃあ他人の意見はまったく取り入れたらダメなのかというと、それもまた違うと考えている。もちろん人間は社会的な生物なので、他人との関わりの中で生きていく宿命からは逃れることは難しい。ではどうするのか。ここで、「嫌われる勇気」でお馴染みのアドラー心理学で登場する「共同体感覚」に着目してみる。共同体感覚では(共同体感覚を真に理解するのは非常に困難と言われていて、私の解釈が誤っている可能性もあるが)自分は何らかの共同体(家族、学校、会社、国、地球、宇宙...)に所属していて、共同体に対する貢献をしたいという欲求を持っているとされている。目の前の共同体に対しては不利益な行動に見えても、より大きな共同体に対する貢献ができていれば良いとのことだ。この共同体感覚が目指しているところと、承認欲求に突き動かされ集団に対して働きかけようとする姿勢は通ずるところがあると考えいる。よって共同体に対して貢献できているという実感が持てれば、自分の存在が重要であると感じることができる。

自分が共同体に対して貢献できているのか、これを測る指標として他者の反応や意見に耳を傾けるのは良いと考えている。しかしあくまで指標の一つであり、自分が共同体に対してどんな貢献をしたいのか考え、それが満たせたかどうかを推し量るのも一つの基準となると思う。つまり、他者の意見に100%従って行動するのではなく、まずは自分が何をできるのか、どのように貢献するのか考えて行動し、その結果を自分の基準や他者の反応を見ながら総合的に判断する。そして次の貢献へとつなげていく。この循環が必要だと思う。

他者からの承認を優先してしまうと、共同体に対する貢献以外にも、他者の興味を引くことに終始したり、逆に共同体にマイナスな影響を与えて負の注目を浴びようとする行動(例えば非行など)にもつながってしまう可能性もある。つまり、本来の目的と外れた方向に行動してしまう可能性を孕んでいる。もちろんそれらの行動が他人に受け取られたときに、違った捉えられ方をして良い方向に働くこともあるとは思うので、一様に悪いこととは言えない。ただ、目的を見失うと間違った方向に進む可能性もあるということだ。人間が社会的な生物である以上、共同体に対して貢献できていると感じるのは少なからず喜びであるため、その方向に行動することが良いと私は考える。

では、共同体に対して貢献できる行動とは何なのだろうか?この世に無数の仕事があるように、貢献の仕方は無数にある。例えば皆が使うための鉄道を作るという貢献の仕方を考えてみる。鉄道を作るためには(私は鉄道に詳しくないので憶測になるが)、まずどこからどこに線路を作るかの設計・鉄道そのものの設計・鉄道を通す予定の地域との交渉・法律的なやり取り、実際の工事計画・複数の鉄道会社との路線やダイヤ調整・スタッフ配置・駅の整備... まだまだ全然足りないだろうが、気の遠くなるようないろんな手順が必要になると思う。これらの各手順に対して得意な人、不得意な人が当然いるだろう。またこれらの手順は全て苦手だけど、全く別の畑の仕事が向いている人もいると思う。苦手なことを克服していくことはもちろん意義があるだろうが、そこに時間を使うくらいなら、自分の得意なことで共同体に対して貢献してしまえばよいと思う。つまり、貢献の仕方は無数にあるため、自分の強みを生かせる部分で成果を上げることができれば、貢献感を満たすことができるのかもしれない。つまり、自分の強みを存分に生かせる環境や事柄を見つけるのが重要である。

なので共同体に対して貢献するためには、自分の強みを、自分自身を知ることが第一ステップなのではないかと考えている。自分はどこに強みがあり、弱いのはどこか。何に興味があり何に没頭しているか、それを見つけるためには内省の時間を取ったり、変にプライドとか持たずに興味を持っていろんなことにチャレンジしてみて自分に合うものを探すのが良いと思う。この世は非常に様々な要素が絡み合ってできているので、自分にフィットする場所がきっと見つかるはずである。よって、目の前のことに無理に合わせようとすると、自分の発揮できる価値が半減してしまう可能性がある。そのためにもしがらみに縛られず、自由に生きていくのが良いと考える。


今回は共同体感覚や自己分析などを交えて、承認欲求について深堀してみました。かなり散文になってしまいましたが、ご意見や感想などコメントいただけると嬉しいです!


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