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つれづれ日記始めます

朝8時、朝ドラが始まる少し前に起きて、朝ドラを見ながら朝ごはんを食べる。自分の部屋に戻って、股関節のストレッチと、軽く筋トレをする。肩が凝っている時は、肩こりヨガをすることもある。それらを一通り終えると、力尽きて、ヨガマットの上で眠りに落ちたり、少し元気な時は本を読んだりする。だが、大抵は何もせずに横になって、シミだらけの天井を眺めている。
そうして、気付けば昼を迎えている。

これが、最近のルーティーンとなっている。

うつ病と診断され、日常の全ての色を失ってから、はや2年が経つ。
今のところ色が戻る気配はない。白黒の世界でただ茫然と息をして日々をこなして行くことにも慣れてしまって、自分がかつて見ていた世界がどんな色をしていたのかも、漠然としか思い出せない。

ただ、病気になる前は、自分の心が、書くことが追いつかないくらいに毎日豊かに満たされていたことは確かだと思う。
先日ふと思い出して、大学生の頃から毎日のように書いていた日記や、フィンランド留学中に綴っていたインスタでの日記、noteの記事、詩を読み返してみた。これが本当に同じ自分なのかと、純粋にびっくりしてしまった。全く知らない、赤の他人の文章を見ているように感じた。

その頃に弾んで息をしていた私の心は、今は半心不随状態で、息を潜めて無関心を貫いている。
今の私の心は、何に対してもうまく反応しない。人と喋っていても、ニュースを見ていても、どこか冷めた目でそうしている自分を眺めている自分がいる。笑っていても、泣いていても、怒っていても、喜んでいても、そうしているのは別の人格であって、本当の自分は何の影響も受けずに無表情で後ろに立っている。時々そんな自分を発見してぞっとする。

重症期から比べたらだいぶ体力が回復してきたから、人と交流する機会も必然的に増えてきた。それ自体は嬉しいし、人と会うことで元気をもらうこともたくさんある。けれど、表側の自分が順調に回復していく一方で、裏側の自分は、傷が一向に癒えていないことを知っている。表側の自分が回復していけばいくほど、癒えていない傷が剥き出しになる。 

「お前、そんなんで治った気か?忘れんな、今も生々しく流れている血を見ろ。お前の傷なんか、そんな簡単に治りゃしねぇし、傷口は塞がりっこねぇんだよ」


深く刻まれた心の傷は、時々そんなふうに、嘲笑うように私に語りかけてくる。


うつ病になってからずっとお世話になっているメンタルクリニックの先生は、私の体調が少し良くなる度に本当に嬉しそうに喜んでくれる。当たり外れが多い精神科の医者の中で、良い先生に出会えたことは本当に良かったと思っている。
けれど、先生にできることは、「表側の自分を回復させること」に限られている。患者が日常生活ができるようになって、社会生活がある程度できるようになることが精神科のゴールであるからだ。そこから先、過去とどう向き合い、自己を回復していくかについては、患者一人一人に委ねられている。

私はずっと、文章を書くことが怖かった。
今の私は、うまく文章を書けない。頭の中のお喋りは止むことがないのに、それらをいざ言葉にして書き出そうとすると、大体3行ほどで呼吸が苦しくなり、思考が停止して、頭痛がし出し、心が沈み込んでしまう。

それでもこのタイミングで、少しずつ書いて、過去と向き合っていこうと思った。私と書くことは切り離せないし、きっと「裏側の自分」を取り戻すには書いていかなければならない。ずっと、天井を見て過ごしていくわけにはいかない。

うまく書こうとせず、書かなきゃと力むこともせず、書きたいという気持ちを大事に、つれづれなるままに書いていきたい。

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