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「期待」という呪縛

今朝もいつものルーティンで朝さんぽを15分しながら、Voicyを拝聴していました。

その中で荒木博行さんの放送の内容で色々と考えさせられるものがあって・・。
この放送を聴いて心に思い浮かんだ思考をつらつらと書き残しておこうと思います。

「期待」とは

今回の放送では、「まとまらない言葉を生きる」という本の解説がメインテーマだったのですが、その中で出てきた「期待」という言葉。

みなさんは、どう解釈していますか?

ある人がそれをするのを(他の人が)あてにし、心待ちに待つこと。将来それが実現するように待ち構えること。

辞書的な解釈だと、上記のようになるようです。

そう、「あてにして待つこと」これが、多くの人が抱いている「期待」という言葉の認識ではないでしょうか。

この意味の中には、「私の思い通りになるように、どうか頼むよ」という気持ちも込められていて、知らず知らずのうちに私たちは、自分の望む方向に相手をコントロールしたいという気持ちを持ってしまっていると思うのです。

それは、自分にとって身近な相手だとより一層この思いを強く持つと思います。

夫や、自分の子供などまさに、ですよね。

自分の方が相手よりも相手をより良い方向へ導いてあげられるという一種の傲慢さのような思いがあるからこそ、その自分の思いに答えられるように従順にやっていってねという期待が生まれてしまうのだと感じました。

そしてそれが、違うものになると「期待を裏切られた」となってしまう。
だからこそ、この「期待」は相手にとって重い存在になってしまうのですね。

「期待」の矢印は相手ではなく、あくまで「私」に向いています。

「期待」ではなく「希待」でありたい

でも、自分が一番正しい正解を知っているなんて、絶対ありえないし、傲慢も良いところ。

自分の望む方向にコントロールすることは決して、愛ではないと思うのです。

それは、まだ幼い子供にとってもそう。

もちろん私たち大人の方が経験値も多く、意思力も子供よりは高いので、例えば危険が発生する可能性のあることなどには安全なところまで導いてあげるなど、手を貸す場面も子育て時はあります。

でも、それ以外は、「ちょっと違うんじゃない?」と一瞬思うことでも、それが必ずしも正しいとは限らない。
だから自分が考える方向へ行くことへ「期待」はしてはいけないと思うのです。

この本の中で紹介されていた「希待」という言葉。
これは造語ですが、中身としては

「見返りは求めず、相手にとってのより良い選択を尊重する」という意味が込められているそうです。

そのため、矢印は「私」ではなく「相手自身」にあるということ。

どんな選択、行動、結果であってもそれが、私の意図することではなくても、相手が、納得し、これがベストだと信じたものを尊重することです。

これは、相手を無条件に信頼、尊重することとイコールだと思います。


この「希期」という言葉を知って、夫や子供たちに対して常にこの気持ちを持って接したいと強く思ったのでした。


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