見出し画像

「違いではあっても間違いではない」を心の隅に置いておきたい。

昨日、本業の仕事でクレイマーっぽいお客様の対応をした。
メールでのやりとりだけでしたが、言葉尻が本当にキツくて、

「え、そういう捉え方するの?!」と、もはや仰天していた。

こちらとしては、懇切丁寧に色々と説明して返信したつもりだったのだけど、(返信前に3名のメンバーで内容チェック)、

「機械的で、何も考えていないように思う、不快だ」というような内容が返ってきて。

これは、何を伝えても、どんなに丁寧に対応しても、この人にはこの人の感じる通りにしか受け入れられないんだなと、良い意味で諦めがついた。

人にはその人の「正義」がある

最近思うのは、人にはその人だけの正義があることがあるということ。

「一般的に」、「普通は」ではなく、その人なりの正義がある。

そして、コミュニケーションミスを誰とでも頻発してしまうような人の場合、その正義からはずれたら、相手がその正義から外れていることを認めない限り、徹底的に責めたり、批判したり、叩いたりする。

人それぞれ、正義があっても良いのだけど、それを間違いだと訂正することは個人的にはしたくないし、そうすべきではないと思っている。

違いではあるけど、間違いだという必要はないのだ。

間違いでは?と思っても、それは相手の正義である可能性もあるのだから、そっと胸にしまっておくのが吉。

他人は許容できるけど・・。

他人だったら、線引きすることが比較的容易だと思う。
その人の人生と自分の人生が交わることがほとんどなければ、影響も受けないから。

(そう考えると、Twitterとかで、罵詈雑言を浴びせたり、人を叩いたりする人って、なんでそういう行動を起こすのか、いまだに理解不能。)

結局、「私には関係ないしな」で見送ることができる。

でも、これが、家族や身近な存在で起こってしまうとなかなか対応が難しい。

違いを「間違い」だと訂正したくなってしまう。これもそれも、相手をコントロールしたいという欲求からくるんだろうなと思う。

ちょっと「期待」と似ている。

話が逸れてしまったが、やはり家族であっても、「間違い」ではなく「違い」だなと考えられるような人間でありたいと思う。

どうしても、自分の価値観とあわず、違いが受け入れられないのであれば、本腰をあげて、その相手との関係性を考えてみるのも良いのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?