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連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』 序章「命つなぐ薗」
序章 命つなぐ薗
春は日ごとに色濃くなって、人々の心を浮き立たせる。梅や桜によって町行く人々の足取りが弾みを重ねる日々となった。
さとに今朝 初鶯の首途して
新春、こう詠まれた頃はまだ寒かった。その寒気も過ぎ去り、今や桃の花が咲くころとなって、いよいよ春光が明るかった。江戸の町では賑わいが弥増した。
そんな江戸の町を眼下に、巨城に上巳の朝が明けた。宝暦七年(一七五七)三月三日、この日、在府の大名が総登城して九代将軍家重に拝謁し、本丸表は大層な賑わいとなる。大奥では雛祭りが行われ、春闌けた時季、桃を飾って美々しく祝う習わしだった。五節句のうち最も城が華やぐ日である。
本丸南西には、蓮池濠を隔てて西之丸が静かな構えを見せ、御継嗣家治の政庁と住まいが営まれていた。西之丸大奥では、旬日も前に中年寄が御次女中を下知し、御座之間と御休息之間に十二段飾りの雛人形を飾りつけてあった。上巳のこの日は本祭りを迎え、節句は最高潮に達する。
御殿向の多くの座敷では、咲き誇る桃の枝を床之間に大ぶりに活け、小壺に挿した桃花一枝を縁入側の随所に可憐に飾ってあった。庭先に鳴き渡る鴬の音に春の風情を添える意匠が鮮やかだった。
西之丸大奥は、本丸大奥に比べ豪奢を抑えて飾り付けられていたが、一歩控えながらも雅を籠めた設えが、むしろ心惹かれる情緒を引き立てて見えた。家治正室、御簾中の五十宮倫子の嗜は「贅を尽くさず趣を凝らす」というにあり、ゆかしく凛とした気色が祝祭の隅々にまで行き届いていた。
倫子は二十歳を迎えた稀代の容色に、出産を済ませた女性特有の色香をしっとり漂わせ、西之丸大奥を見事に主裁していた。典雅な所作と寛容な心延は奥女中の鑽仰の的だった。
倫子は、前年七月に出産した千代姫のために心をこめて初節句の準備に没頭した。その熱意には、我が第一子の幸を願う親心と、幼い頃、実家の閑院宮家で祝った桃の節句を追憶する心が甘酸っぱく混じりあっているようだった。
ことの発端は将軍家重だった。寛延元年(一七四八)の初冬、家重は京都所司代、牧野備後守貞通に窃かに調べ事を命じた。後日江戸に届いた書付けには上流公家諸家の姫に関する消息が詳らかに書かれ、これを基に、家重は倫子に目を付けた。当時、十二歳になった嫡男家治の正室候補に、一歳年下の閑院宮直仁親王第六王女はいかにも似つかわしかった。
家重が大御所吉宗に相談すると、早速、愛情深い賛同を得た。吉宗が家治にかける嘱望は並大抵ではなかった。家重は京都所司代、牧野を通じ、閑院宮家との縁組を朝廷へ申し入れた。
将軍家からの突然の申込みは、閑院宮家にとって降って湧いたような話だった。驚き当惑しながらも、よく事情を知れば悪い縁談であろうはずはなく、倫子と御継嗣徳川家治の縁談がとんとん拍子にまとまった。
倫子は十二歳になった春、桃の花が爛漫と咲き誇るなか、京都を発って江戸に向かった。江戸城本丸に着いたのは三月十九日、桜の散り終わるうらうらとした晩春の日だった。
しばらくして、倫子は江戸芝口の浜御殿六万五千二百九十三坪に住まうことになった。その御殿敷地の二方は海に、二方は濠に囲まれ、四か所の御門とそこに架かる橋で江戸の町とつながっていた。
御殿の大手御門から橋を渡って江戸市中を通り、家重、家治父子を江戸城に訪ね、挨拶に出向くこともしばしばだった。ある時は、大奥の主だった御上臈を訪問し、御殿に慣れておく機会が設けられた。倫子の処遇に細心の配慮が払われていることは明らかだった。
浜御殿の中央には、明るい潮入りの池が広がり、海から鰡や鯊が入り込んで、水鳥が自由に遊ぶ鴨猟場となっていた。御殿の一角には庭園化された田畑が色濃い緑に囲まれ、田園生活の情緒を巧みに造形化してあった。
こうした造りに目をやれば、この御殿の特徴は開放的な縄張りと高尚な造園思想にあることが見て取れた。海のきらめきが照葉樹の巨木に照り映え、心の浮き立つような興趣が倫子を楽しませた。
御殿東南側には海手御茶屋が設けられ、杮葺きの屋根の上に、巨大なすだ椎が大枝を張っていた。亭々と聳える巨樹の佇まいに、この屋敷の長く続く高貴な由緒が知れた。
茶屋の眼前には江戸前の海が広がり、遥か上総より下総に連なる山なみが一望できた。京都の深窓に育った倫子には広濶な海の風景が珍しく、沖に漁る舟は眺めて飽くことがなかった。
御付きの奥老女に付き添われ庭園をめぐることが倫子の大切な日課となった。木漏れ日の森を辿り水鳥浮かぶ池を巡っては、四季の移ろいを感ずる瑞々しい心を育んだ。
時に和歌や漢詩を諳んじ、時に画筆を走らせ、庭園の万物から高貴な風情を感じ取って素養の糧とした。御殿には穏やかな時間が流れ、高雅な趣味と知的な好奇心が倫子の心に陶冶されゆく日々を織りなしていった。
法心院御殿の北側には、吉宗が将軍職にあった頃、越南から取り寄せた象を十三年にわたって飼育した「象部屋」が残っていた。倫子がこの屋敷に来て間もない頃、八年前まで象が住んだという屋舎を奥老女に案内されたことがあった。
象部屋は、大きな戸口を備え天井がひどく高い土間造りになっていた。これをきっかけに、倫子は邸内に備えられた図屏風を見て、象なる南国の巨獣を知った。秋になると、象は御庭に実る九年母を好んで喰ったと聞かされた。
「象もお蜜柑がお好きやなんて……」
倫子は九年母の甘酸っぱい爽やかな味わいを好んだから、象に妙な親近感を覚えた。散策の途中に立寄って象部屋の中を窺い見ながら、倫子は象の匂いが残っていやしないか、鼻を嗅ぎ澄ませることさえあった。
いずれ夫となる家治にも漠然と関心があったが、その祖父が、果たしてどのような人物なのか、なぜ南海の異国から遙々、象を取寄せるようなことをしたのか、吉宗にも強く興味を惹かれた。
「よほどに御準備をお整えやしたに違いあらしまへん。遥か遠い外つ国から異国の御船に乗せて、千五、六百貫目もあるような巨きな獣を幾十日も海の上をお運び遊ばすのやさかい、大変なことどす」
倫子は奥老女の話をもっともだと聞いた。
――船上、いかほどの餌と水が要りようだったことやら
いぶかしみながら、将軍だった頃の吉宗はなぜこのような途方もないことを企てたのだろうかと幾度も思った。その頃から、倫子は将軍一家に強い親近感を抱き、御殿の生活に張りがでた。
御殿には、倫子に第一級の教育を授けるため、多くの師が次々とやってきた。倫子は将来、御簾中にふさわしい素養と嗜みを体系立てて授けられ、広大な屋敷で健やかな少女に育った。その美少女ぶりは、健康と聡明さに裏付けられて日々、洗練され、際立った成長をとげた。
倫子は五年の間に、武家のしきたりと覚悟のほどを身に付け、将軍家重の目指した傅育の実が十分に上がった。公家のたおやかな嗜みと武家の凛とした心根を兼ね備えた女性となって、天性の麗質が存分に磨かれた。
倫子は家重の眼識にかない、宝暦四年(一七五四)十二月朔日、西之丸で徳川家治と婚礼をあげた。家治十八歳、倫子十七歳、婚礼を見た誰もが内裏雛のようだと賞賛したのは、ほんの二年余り前のことだった。
倫子は西之丸大奥で三回目の上巳の節句を迎え、御座之間上段に出御した。脇には、生後八か月、二歳となった千代姫を抱いて奥老女が控えた。主だった中年寄らが下段両脇に列座する中、御目見以上の奥女中によって、上巳御祝いの言上が始まった。
奥女中の一人が上段の正面下に進みいで慶賀の挨拶を述べたあと、御年寄が一言を言い添えた。それを聞いて倫子は御簾中らしく温雅な所作で丁寧に頷き、褒美の品を下賜して笑みを添えた。
奥女中はこの笑み一つで、心のうちに、倫子への忠義を誓いたくなるのが常だった。長い時間を要する儀式だったが、大奥の一体感を高める意義が確とあった。御祝い言上の式が終われば、白酒と祝い料理が奥女中に下賜されるのが恒例で、西之丸大奥の誰もが上巳の節句を楽しみにしていることを倫子は心得ていた。
本丸御殿から、首に皺寄った白髪まじりの留守居役が祝儀を述べに罷り越せば、奥女中が挨拶を受けることになっていた。留守居役に菱餅を進上したのち奥女中が案内に立って、雛飾りを披露するのが例年の習わしだった。
雛壇に案内される途中の御廊下では、御目見以下の下々の女中までが相応に麗々しく装いを整え、いそいそと御用をこなしていた。桃の祭りの華やかな雰囲気の中にも、一筋、張り詰めた気配が感じ取れた。留守居役の老人は、西之丸大奥が規律を保ち儀式を整然と営んでいることを見てとったように、満足げに幾度も頷いて御廊下を通っていった。
雛飾りを披露され、留守居役は相好を崩しながら、案内に立った奥女中に話しかけた。
「今頃、御本丸表では上様に鮮鯛が献上され、大勢の大名が熨斗目長袴姿で拝礼している頃であろ。儂のような年寄りには、表の厳しき儀式より、ここの桃の節句のほうがよほど楽しいでのぅ」
「まぁ、そのような御軽口を致されますこと。今日は年に一度の格別の祝い日。大奥のお慣例でもござりますれば、ごゆるりと白酒など召されませ」
日頃から、本丸表と西之丸大奥の連絡役を勤める男女の幕府高官は、互いにねぎらい合って莞爾と笑みを交わした。鴬が長閑に鳴き渡り、爛漫たる春日が西之丸大奥のうえに遅々と過ぎていった。
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