佐是 恒淳 さぜ つねあつ

埼玉県在住です。退職を機に、歴史小説を書くという長年の夢をかなえ発表の場をネットに求め…

佐是 恒淳 さぜ つねあつ

埼玉県在住です。退職を機に、歴史小説を書くという長年の夢をかなえ発表の場をネットに求めました。史料を厳格に読み込んで、史料では語られない歴史人の感情と気骨と志を創作し、歴史を生き生きと再構成することを目指します。幕末、松平容保公に付き従って京都に赴任した會津武士を先祖に持ちます。

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『将軍家重の深謀-意次伝』目次・概要

田沼意次は行き詰った幕府財政を立て直し、十八世紀日本の経済インフラを近代化した気鋭の政治家だった。田沼の多岐にわたる経済政策を描きながら、なぜ、田沼は失脚し、後世、賄賂政治家の悪評を貼りつけられたのか、近年の研究成果をもとに政治の闇と謀略を読み解き、田沼の実体に迫った。佐是恒淳の歴史小説の世界をお楽しみください。                     原稿用紙510枚(無料公開版) 目 次 序章  命つなぐ薗 第一章 小便公方の遺言  第一節 孤掌鳴らず     投稿中

    • 戦争をやっちゃいけないと言う人に聞いてみたいこと

      例年、8月15日前後に、いろいろのイベントが日本国中で開かれ、平和の尊さ、戰爭はいけない、ということが強調されます。全くその通りなのですが、最近、気になり始めたことがあります。 インタビューに応え、小学生でも「戦争はいけないこと」と発言しますし、親御さんも固く信じていらっしゃるのでしょう。 私は、戰爭はいけないとおっしゃる大人の方々に次の質問を聞いてみたいと思うようになりました。 「ウクライナの人々が、今、ロシア軍に対して行っていることは、あなたの言う ”やってはいけない戰

      • 連載小説『将軍家重の深謀-意次伝』終章

        終章 七万坪の更地  これまで着々と幕府の財政改革を進め、ついに最後の目標を手掛けるまでに至った。天明六年(一七八六)春、意次はこう思ったに違いない。意次の最後の目標、それは全国の民に広く薄く、税なり社会費用を分担させることだった。  前年師走、幕府は大阪の豪商から御用金を徴募し、大名に貸付ける資金とする仕組みを試みたが、順調に資金を調達できなかった。諸藩の財政逼迫は深刻で、幕府がなんとか支援したくとも幕府の財源に限りがあった。  各藩の自力再生を支援する社会の仕組みが必要

        • 連載小説『将軍家重の深謀-意次伝』第四章八節

          第四章 蟲喰まれる樹 八 巨樹蟲に抗せず  天明五年(一七八五)六月朔日、松平越中守定信は一年間の白河在国を終えて江戸に参府した。将軍の日光御社参の警備で国入りしたことはあったが、国許で藩政を見たのは初めてだった。この一年間、飢饉に喘ぐ白河藩の民百姓を救い、藩財政を立て直すのに渾身の力を発揮したと自負があった。  儒学に裏打ちされた仁なる政の理想を求め、家臣を叱咤激励した。自ら率先垂範して倹約を励行し、朝夕一菜、昼一汁二菜で通すところを家臣にみせつけ、絹を避けて綿服だけを

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        『将軍家重の深謀-意次伝』目次・概要

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章七節

          第四章 蟲喰まれる樹  七 辰年、みたび巡る  天明四年(一七八四)甲辰の歳が明けた。奥州では、いよいよ飢饉が本格化し、死者がおそろしいほどに累積した。一方で西国はむしろ豊作といってよかった。国内流通さえ滞らなければ、奥州もこれほどの惨状に陥らずに済むはずだった。幕府は奥州諸藩に救援米を送ろうと考えたが、冬の荒れる北の海に船をだそうという船頭は一人もいなかった。海運で米を届けるには遅すぎた。  それだけでない。浅間山の砂礫灰が関東一円に降り積もり、田畑から除けなければな

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章七節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章六節

          第四章 蟲喰まれる樹 六 天地荒ぶる  天明二年(一七八二)明けて早々、大変なことが相次いだ。二月には大風雨が各地を襲い、近畿一円から加賀がやられた。五月に四国、八月に九州、伊勢と大きな被害が相次いだ。春から秋にかけて西国は洪水で散々な目に会った。  大風雨だけで終わらなかった。七月十五日、江戸の町は、蒸した残暑の夕刻、長屋の人々が縁台に端居して日暮れの涼しさを待っている頃だった。団扇を使って寛いでいると、にわかに大地が揺れだし、壁は振い瓦は落ち、戸障子は打ち倒れた。頼

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章六節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章五節

          第四章 蟲喰まれる樹 五 天守聳ゆ   安永九年(一七八〇)四月六日、意次は相良に向けて江戸を出達した。相良城がようやく竣工し、検分する旅だった。三万七千石の大名行列に持鎗二本をすっくと立てた。明和六年、老中格に任命された折に許された老中本職の堂々たる格式だった。  意次は道中、駕籠に揺られながら先月以来の懸案を振り返った。一橋民部卿治済から、越前松平家の財政の窮状を何とか助けてやってほしいと書状で頼んできたのが発端だった。越前家は以前から幾度も財政の逼迫が幕臣の間で話題

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章五節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章四節

          第四章 蟲喰まれる樹 四 再び芽吹かず   安永八年(一七七九)三月十九日夜、家治は疲れ果て、中奥御小座敷で褥の上で凝然と項垂れていた。この日、亡き家基の霊柩を発引し東叡山寛永寺にて埋葬を終えた。家治は、冷厳で無慈悲な事実を受入れようと、このひと月のできごとを振り返り、数えきれない繰り返しにまた一回を重ねた。  二月二十一日、家治は、八日前に浜御殿で催した小普請組百二十一人の乗馬観覧で、見事な馬術を披露した者に時服を褒賜し、機嫌よく日頃の精進練磨を褒めてやっていた時だった

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章四節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』     第四章三節

          第四章 蟲喰まれる樹 三 鷹羽を折る   安永七年(一七七八)三月十八日、十七歳の大納言家基が、童形をあらためる日だった。家基は五歳にして加冠の儀を行い、朝廷から従二位権大納言に叙任されて以来、童形のままに過ごしてきたが、もう、月代を剃ってもいい年頃だった。  およそ加冠の儀は十代半ばごろに行うのが普通で、吉宗の長男家重、二男宗武、三男宗尹はともに十五歳で済ませた。ただ家重の長男家治は、五歳にして執り行い、早々と従二位権大納言に叙任された。竹千代という幼名と官位によ

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』     第四章三節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』     第四章二節

          第四章 蟲喰まれる樹 二 士の心を観る   安永六年(一七七七)正月の松がとれた頃、意次は神田橋御門内の上屋敷にて、井上伊織から報告を受けた。井上は、築城中の相良城に、来月ようやく大手門が竣工すると言上にやってきた。  相良城の始まりは明和四年(一七六七)七月一日。この日、意次は家治より側用人に任じられると同時に築城を許された。縄張りを受け持ったのは家臣の須藤治郎兵衛。下準備を通して適地を選び、堀割って周囲の川筋を整理し、町屋を引越しさせて城堀を堀った。  明和五年(

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』     第四章二節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章一節

          第四章 蟲喰まれる樹 一 未来を契る   安永四年(一七七五)八月二十日、田安家家老大屋遠江守明薫に命が下り大目付に異動となった。後任に、川井越前守久敬が勘定奉行のまま兼帯となり、官料千俵を賜った。  意次は、大屋が明屋敷となり果てた田安の家老職でいるより格の上がる職を喜ぶに違いないと思った。六十三歳の矍鑠たる老人に、もう宝蓮院の怒気を含んだ繰り言をなだめる役は終わったのだと言ってやりたかった。意次は、紀州閥の人間に決して悪くは計らわないとの信条をこの時も守った。  

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章一節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章八節

          第三章 栴檀の棘 八 民に力あり   安永四年(一七七五)春、幕府は活気に満ち、幕吏一人一人が活発に動いていた。四月朔日の月次登城の折に、月番老中松平武元(館林六万一千石藩主)から、翌年四月、上様が日光東照宮を社参されると、御三家と在府の諸侯に伝えたからだった。  明和八年から始めた倹約令により、幕臣一同、孜々として経費を積み上げた。苦しかった足掛け五年の倹約は四月で満了となり、当初の予定額を達したのだろうと幕吏は噂した。各部署の御定高(予算)が緩くなるわけではなかったが

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章八節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章七節

          第三章 栴檀の棘 七 毒棘を刺す  安永三年正月、江戸は極寒の真っ只中にあった。前年末から一気に寒気が募り、江戸中を巡る堀と水路は分厚い氷に閉ざされた。市中の舟運が完全に止まっただけでなく、大川の浅草付近の川面までもが結氷して、江戸に運ばれる各地の物産が途絶えた。凍り付いた市中では、正月というのに松飾を整えられず、正月必需品が払底した。  一橋邸の堂々たる表門を、星梅鉢を打った駕籠が通っていった。白河松平家の家紋である。まだ松の内だったが、この年一橋家は喪中で、門松を据え

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章七節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章六節

          第三章 栴檀の棘 六 百年を計らう  明和九年(一七七二)九月七日、満を持して、幕府は南鐐二朱判の発行を布達した。これは奇妙な貨幣で、銀で鋳てあるにもかかわらず金貨単位の朱を以て数え、金貨を意味する判と命名してあった。 ​ 銀の品位は千分の九七八、「南鐐」の文字が純良な銀を意味する通り、ほとんど純銀と言ってよかった。長崎で、唐と阿蘭陀から輸入した銀を営々、十年にわたって貯め込んできた甲斐があった。  幕府は、あくまで少額金貨であると強調し、二朱銀とは呼ばなかった。布達では

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章六節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章五節

          第三章 栴檀の棘 五節 両取りを指す  明和九年(一七七二)正月十五日、意次は老中格から老中に昇進し、五千石の加増を賜わった。五十四歳にして三万石の堂々たる大名である。しかも、側用人の職位は元通りという下命だから、表職、側職両職を極める立場になった。  そもそも老中には、譜代大名の家に生まれたものを任命するのが幕府本来のしきたりだった。 微禄の出から才覚一本で成り上がり、側用人を勤めた柳澤吉保でも間部詮房でも、老中格にまでなった先例はある。そして、それまでだった。  ――

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章五節

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章四節

          第三章 栴檀の棘 四 尽きず湧きくる  明和八年(一七七一)正月、勘定吟味役、川井久敬が京都から帰ってきた。仙洞御所の造営をきっちり一年間で終えた。  ――まずまず巧くいった普請じゃった  川井は己の経歴で、どういう訳か、大掛かりな普請仕事を拝命することが多かったとよく思う。意次に抜擢された直後、久能山東照宮の御宮普請を監督したのを皮切りに、美濃国などのいくつかの川普請を成し遂げ、作年末に、仙洞御所の普請を終えた。大きな普請ばかりでそれぞれに苦労はあったが、いずれも満足の

          連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第三章四節