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【発達障害】 普通になれなかったら、今度はエジソンにならないと認めてくれないの?


今読んでいる本です。


ドラマ『僕の大好きな妻!』の書籍版です。


発達障害の妻と定型発達の夫が、壁にぶつかりながらも前に進んでいくストーリーです。


まだ途中までしか読んでいないのですが、発達障害ならではの就労でのつまずき、家族から理解を得る大変さなどが、非常にリアルに描かれているなと感じます。

 


発達障害の妻・知花さんのセリフでとても印象に残ったものがあります。

「普通になれなかったら、今度はエジソンにならないと認めてくれないの?」


知花さんのこの言葉は、私の心の叫びを代弁してくれているようでした。

 

私自身、過去にごく近しい関係の人から
「発達障害者は才能を持っているというでしょう」
「あなたにも才能があるはず」
「才能を活かして生きていく道を考えてみてほしい」
などと言われ続け、うんざりしていた時期があったからです。

 



「普通になれないなら偉人を目指せばいいじゃない」言説は、マリー・アントワネットの有名な言葉「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」に似ているなと感じます。

当時のフランスの貧民のように、発達障害者の多くは日々を生きのびるだけで精一杯です。

特に、発達障害の知識が普及していない時代を生き抜いてきた昭和〜平成初期生まれの発達障害者の多くは、家庭や学校や職場で排除された経験を持ち、鬱や不安障害などの二次障害を抱えています。

才能を発揮して活躍している人はほんの一握りに過ぎません。

私自身、平成初期に生まれた発達障害者の一人です。
当時は今ほど発達障害の知識が浸透していなかったことから、私は適切な支援を受けることもなく、至るところで誤解され叱咤され排除されて育ってきました。
子供時代に苦しんだ記憶は、今も私の奥深いところに爪痕として残っています。


「普通になれないなら偉人を目指せばいいじゃない」言説は、マリー・アントワネットの言葉と同じくらい、残酷で現実離れしたメッセージだと私は感じるのです。

 

 

では、ほんの一握りの才能ある発達障害者に対してだったら、「普通になれないなら偉人を目指せばいいじゃない」言説は通用するのでしょうか。

才能を発揮して活躍さえすれば、発達障害のマイナスの障害特性は帳消しされるのでしょうか。

私はそうは思いません。



図書館の伝記コーナーで発達障害だったと言われている偉人たちの伝記を読んだことがあります。

彼らは、突出した才能によって世に貢献した一方、私生活では発達特性のために幾度となく壁にぶつかっており、一生活者として、一家庭人として、幸福な人生だったかと言うと決してそうではありませんでした。

  


私個人としては、もし自分に突出した才能があったとしても、偉人を目指さず平凡な勤め人として生きていくつもりです。
私は発達障害である前に人間であり、人間としての私は「平凡に静かに暮らしたい」「安定した人生を送りたい」という価値観を持ってるからです。

 



「普通になれないなら偉人を目指せばいいじゃない」言説は、平凡な発達障害者が平凡なまま生きてくことを尊重しておらず、差別と紙一重のように私は感じます。
私たち発達障害者はサクセスストーリーを提供するコンテンツではありません。
発達障害者が特別な才能を発揮しなくても、ありのままで認められる社会を私は望みます。

 

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