見出し画像

発達障害者のマイナスをゼロに近づける努力もどこかで日の目を見てほしい


私は発達障害者のコミュニティによく出入りしています。

そこには、ちょっと話しただけでは発達障害には見えない当事者も少なくありません。

しかし話を聞けば、一見普通に見える彼ら彼女らは皆、発達特性をカバーするために血の滲むような努力をしてきたことが分かります。



「遅刻しない」「忘れ物をしない」といった健常者ならちょっと気をつければ出来るようなことも、発達障害を抱えた彼ら彼女らは、数々のライフハックにトライアンドエラーを繰り返していました。

「雑談が出来ない」「空気が読めない」特性を抱えた当事者の中には、人間関係やコミュニケーションに関する指南本を何十冊と読み、学んだことを当事者会で実践しては練習しているという人もいました。

 

発達特性をカバーするために、失敗や挫折を繰り返し、血の滲むような努力をしてきた彼ら彼女らに接したとき、私がふと思うことがあります。

 

もしも、このとてつもなく努力家な彼ら彼女らが発達障害に生まれてなかったら? 発達特性をカバーするのに注いできた心血を勉強やスポーツに注げられていたら?

彼ら彼女らはきっと優秀な成果を出して、スポットライトだって当たっていたんじゃないかと思うのです。

 


悲しいことに、マイナスをゼロに近づける努力はなかなか評価されないんですよね。

それどころか、健常者目線からしたらゼロであることが当たり前だから、まだ残っているマイナスの部分に着目されて責められることが多いのです。

生まれつきゼロ時点の健常者が、勉強にスポーツにとプラスを重ねる努力をしている横で、誰にも褒められずにマイナスをゼロに近づける努力の切なさ…。


発達障害者の見えない努力も、どこかで日の目を見てほしいなと思います。


 

《補足》

発達障害と診断されている人の重症度はまちまちです。
重症度によっては、努力じゃどうにもならない人、努力することも難しいという人もいます。

また努力は、過剰適応と紙一重です。
過剰適応とは、心身に過度な負荷をかけながら健常者と同じように振る舞っている状態を指します。
過剰適応を長く続けることは、うつ病や神経症のリスクが伴います。

努力をしていない(していないように見受けられる)発達障害者に対し、安易に努力を強いることはあってほしくないと願っています。


おしまい。