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大企業だろうと作業所だろうと働いている人は全員えらいから😭


流れる季節の真ん中でふと陽の長さを感じる3月某日。

いつだって誰かが何かで炎上していて、話題の絶えない障害者X界隈に、新たな火種が投下されました。

超大手企業に勤めていたものの精神疾患のために離職し、作業所利用者としてリスタートした女性が

「なんで○○に勤めていた私が作業所利用者やねん。底辺にも程があるやろ」と、過去の勤務先の社員証の画像付きでポストしたもので、瞬く間に炎上。

作業所の利用者や支援者からは「作業所で働いている人に失礼だ」と批判の声が上がりました。



当該ポストの炎上に、私は何とも言えない気持ちになりました。

当該ポストは作業所で働く人々を傷つけるもので、決して肯定できるものではありませんが、
一方で大企業勤務から作業所勤務になった現実を受け入れることは、決して生易しいことではないだろうと想像ついたからです。






職業に貴賤はないと言うけれど


道徳的なことを言えば「職業に貴賤はない」のかもしれません。

けれど、熾烈な競争を勝ち抜いて大企業社員という社会的地位を得た人がそこから外れること、そして障害者の集団に属して働くことが、精神的にラクなことでないのはすごく分かります。

私自身、ポスト主と少し重なる経歴を持ってるからです。

私は大学の看護学科を卒業しています。
看護師免許を取得したものの、発達障害特性を持っていた私は、看護師の業務についていくことができず、たった一年で看護師の仕事を辞めました。
その後、障害者雇用枠で求職活動をし、ローカル企業の工場で働くことになりました。

率直な本音を言えば、大学の同級生が看護師としてキャリアを積んでいく中、看護師免許も、大卒資格も活かせない場に身を置くことは、精神的に苦しいものでした。

わたしだって、同級生らと同じように
数々の実技試験に進級試験、看護実習、国家試験を乗り越えて
看護師免許を手にしたのに。
なんで、わたしは。

それでも生きていくためには、発達障害の自分にもできることの中から仕事を探して、働かないといけない。

過去を振り返っていても仕方がない。
今やれることをやるしかない。

看護師免許の取得にかけた努力が無駄になってしまった切なさ、悔しさを心の奥底にぐっと押し込んで、工場での労働に邁進しました。



社会は分業制だから大丈夫


しかし人間、不本意な境遇にも時間とともに慣れていくものです。

しだいに工場で作っている商品に愛着がわいてくるようになり
同僚とも打ち解けて、社内に趣味の合う人も見つけて、趣味談義をできる相手もできて、

「工場勤務ライフも悪くないかも」と思える瞬間も増えてきました。



今でこそ私は、「社会は分業制だから、私が看護師しなくてもいいや!自分にできることやっとこ」とわりと気楽に考えられています。

社会は各々ができることを持ち寄って成立しています。

看護の仕事は、看護が向いている人に任せておけばいいや。
看護師不足とは言うけれど、わたしが看護師やらなくったって、なんだかんだ社会は回るんだし。
自分にできることしといたらいいや!

ってスタンスです(笑)


こんなふうに開き直り(?)ができるようになるまでには、相当の年月が必要でした。

看護学科で使っていた教材、病棟勤務時代のメモ帳、自己学習の成果物。全部捨てました。
看護師の免許証も押入れの奥に封印しました。
同級生が看護師としてキャリアを積んでいる様子を見ると、どうしても今の自分と比べてしまって切なくなるから、同級生のLINEグループも抜けさせてもらいました。

そうやって時間をかけて少しずつ、少しずつ、看護の世界にいた記憶、「あの時あんなに頑張ったのに」という自負を、成仏させていきました。


当該ポストの投稿主は、おそらく受容過程の中にいるのだと思います。
近い道を通ってきた人間として、いつか彼女が大企業時代の記憶を成仏できる日が来たらいいな…と影ながら願っています。



働いている人は全員えらいのです


普遍的な事実を言えば、働いている人は全員えらいのです。

大企業だろうと、中小企業だろうと、正規雇用だろうと、非正規雇用だろうと、自営業だろうと、作業所だろうと、夜職だろうと、全員えらい。

わたしは看護師から工場勤務に転向した後も、まあ人生色々ありまして

小さな組織に、大きな組織に、昼職に、夜職に、

いろんな社会集団を転々としてきたし
いろんな職業の人と会ってきたのですが

どの職業にも、どこの組織にも、矜持を持って働いている人はいるのだなと感じたものです。

すべての労働者に今日も幸あれと、現在休職ニートの身にある私は願っております。




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