とある男の新型コロナ病床録(前編)
あえてお決まりのセリフからはじまるのだ。
「まさか自分が」
2020年7月28日――記憶がまだ新しいうちに、私の新型コロナ体験をここに記録しよう。
それは丁度二週間前、7月14日の夜から始まった……
日課の筋トレとランニングを終え、シャワーを浴び、ストレッチをしてさあ寝ようというとき、わずかな足の痛みがあった。
そのときはランニングや筋トレの疲れかな? などと思った。だがそれらはきついトレーニングではなかった。トレーニングと記すのもはばかられる軽いものだ。健康維持の運動と言ったほうが近い。
このときおかしいと気付けてもいいものだが、悲しいかな平和な時代を謳歌しきった正常性バイアスは、こんなことでは揺るぎようもない。
「あの程度で体に影響でるなんて俺も歳取ったな」
チクチクと痛む足を触りながらそう納得し、その日はさほどの苦も無く眠りについた。
次の日、7月15日。
今にして思えばその日明らかに体調が悪かった。症状は全身の痛みだ。頭痛もある。
だが午後14時の時点では、夜にあるボイストレーニングに参加するつもりでいた。
そう、私にはまだ余裕があった。
なにせ私は超健康優良児(おじさん)。7月3日に受けた人間ドックではほとんどの項目でA判定。バランスの取れた食事に適度な運動、しっかりとした睡眠に気ままでストレスのない毎日――そう、現代という地獄に生きる戦士たちからしてみれば嘘だろうと思われるような理想郷に、私は生きていた。
そんな私が体調を崩すことなどありえない。そんなやわな抵抗力はしていない。ましてや新型コロナウイルスなどという新参もののウイルスがこの体に侵入することなど、到底不可能なのだ! この体調の不良は、単なるトレーニングからくる筋肉痛だ、私はそう思っていた。
しかし、さしもの私も異変に気付いた。それは3時のおやつにヨーグルトを食したときだった。
オレンジの味がする――
瞬間、私は手元のパッケージに視線を移す。そこにはなんとものんきなフォントで『プレーン、加糖』と記されている。
『馬鹿な! では今! 俺が感じた味は何だというのだ!』
使えぬ家臣がありえない伝令を持ってきた――そんな猛将さながらにヨーグルトに激した私は、怒りの二口目を口に運ぶ。
オレンジ――――!!
プレーンを買ったのになぜオレンジ果汁が入っている? これはもうお客様センターだ。訴訟だ訴訟だ。
すっかり悪質クレーマーと化した私はわなわなと震えながら立ち上がり、神速のインパルスで電話番号を調べ上げ、スマートフォンを手に取る。そこで私は「待てよ」と独り言ちた。
『俺の味覚がおかしいのではないか?』
連日ニュースで流れる新型コロナの症状――味覚異常。これが頭にちらついた。
しかしそれは万に一つもあり得ない。前述した通り私は超健康なのだ。それに加えて私はおうし座。そう、王様のブランチ2020年下半期星座ランキングで二位の、あのおうし座だ。物理防御にラックまである。この私が新型コロナウイルスにかかるなどあってはならないのだ。
だが……
『二位じゃ……二位じゃダメなのか……?』
頭の中で短髪の美人政治家が浮かんでは消え、浮かんでは消えるなどした。
そうしてすっかり弱気になった私は、その日のボイストレーニングをキャンセルし(これは菊池涼介も真っ青のファインプレーだろう。あやうくクラスター発生装置と化すところだったのだから)PCR検査の受け方を調べ始めた。
どうやらPCR検査を受けるには、まず町の診療所で検査を受けて紹介状をもらわなければいけないらしい。
「検査のために検査を受ける……ふふ、ハンター試験かな?」
思い返してみればこのときすでにコロナウイルスは派手に私の体を侵食していたのだろう。PCR検査を受けるための無駄なハードルの高さに対し、少年漫画のワクワクすっぞ系主人公の体で構えていたのだから。
その日の夜、ウイルスをなめた罰があたったのか、私は全身の激痛にさいなまれ、文字通り夢と現実のはざまをいったりきたりする羽目になった。
この日の夜だったか、次の日の夜だったか、すでに記憶は曖昧となっているのだが、本当に死を覚悟した。それほどの苦痛であった。
遺書を書いたほうがいいのではないか。何度もそう思った。
よだれを垂らしながらベッドからはいずり出て、床を転げた。寝ているよりも、のたうったほうが楽だったから。
ここ数年で、一番長い夜だったのは言うまでもない。
(続く)
なんてことだ このおれが花束だと? いままでどんな女性にも花を贈ったことのないおれが……!