またたび

冬に白神山地へ山歩きをしに行った際、多くの湖、池を見た。観光客は皆寒そうに駐車場からほど近い青池なるコバルトブルーの見栄えの良い池を見ては足早に帰っていった。私と母は少し奥まで行くつもりだったのでいそいそと脇の道を進んだ。シーズンを外れていたためか山の中で人にはほとんど出会わなかったが、稀に出会う人は皆少し奇妙であった。
山の中で人とすれ違う際、大抵「こんにちは」と一声掛け合う。なのですれ違った人は少し印象に残るものだ。しかしあの山の中で出会う人はなかなか印象に残らなかった。山に音を吸われているかのように突然に出会い、通り過ぎる木と同じように一人一人を思い出すことは困難だった。人ではないのではないか、そう思わせる何かがあった。
歩き始めて少したった頃、穏やかな道で向かいからおじさん(おじいさんだったか)が歩いて来た。その人は初めから店先の狸の置物のような雰囲気で、にっこりとしていた。細い眉毛も半円に垂れた目も膨らんだ丸い鼻もなんだかおかしかった。「こんにちは」そう声をかけると「こんにちは。もうほとんど取られてしまったけど、これ残っていたから。」と言ってオレンジ色のフニフニとしたドングリのような木の実を二つ、私の手のひらに乗せた。「ありがとうございます。これは・・・」
「またたび。これを食べると精がつく。そしてまた旅に出よう、のまたたび。切ると中はキウイのようだよ。疲れた時に食べなさい。」
そう言って、また一段とにっこりとし歩いて行ってしまった。
私が興味ありげにその実をまじまじと眺めていると、「まさか本当に食べないでしょうね。」と母が怪訝な顔をした。「食べようかな。」そういう私に母はさらに変なものを見たように「やめなよお・・・」というので、「まあ持って帰って洗ってみるよ。」とだけ返した。「それにしても変なおじさんだったねえ。なんだかたぬきにばかされた気分だよ。」そう言って母は歩き出した。
白神山地はそれくらい人間の匂いがしない山だった。
山の中では観光名所十二湖の名称の通り、多くの湖があった。ほとんどは池、むしろ沼と呼ぶべきか判断つかぬものだったが十分に面白かった。いくつも目にするうち、あれこれはさっきの沼ではないか、そう思うものも多く、追いかけられ先を越され山にまで化かされているような変な気分だった。干上がっているのか、散策マップにはあるもののじっとりとした土の上に枯れ葉が積もっているだけのようなところもあり、それも相まって池や沼が山の中を出たり入ったり自在に移動するような、息継ぎや休憩のために山肌に現れ、あたかもずっとそこにいたフリをしているような不思議な存在だった。
そして頂上やここがゴールだという地点を特に得ぬまま、「ああ、ここにこうやって出るのね。」そう言ってスタートした青池へとさらりと戻ったのだった。
特にどこで疲れたと感じることなく終わったため、すっかり貰った木の実のことは忘れマウンテンパーカーのポッケに入れたままその日を終え、旅行を終え、母と別れ1人の家へ帰宅し洗濯してしまった。
干しているときにふと思い出し、「あっ」と取り出してみると、もらった時よりフニャフニャとはしていたが形状を保っていたので、流石にもう食べられないが切ってみようと思い、一つ大きめのものをナイフで半分に切ってみた。
すると確かにオレンジ色のキウイのような、黒い種が綺麗に丸く並んでいた。

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