見出し画像

「内藤礼 生まれておいで 生きておいで」展

 東京国立博物館にて、美術家・内藤礼の個展「生まれておいで 生きておいで」が開催されている。
 常吉にとって豊島美術館は聖地であり、それから興味がわいて水戸での内藤礼の個展に行って、たいへん感銘をうけた。その次の金沢の個展はうっかり見逃してしまったが、今回はそうはいかぬ。
 張り切って行こうと思う矢先、たまたまNHK「日曜美術館」でこの展覧会が放映された。混むのでは、と心配したけれど、意外に苦もなく予約がとれて助かった。

 ということで訪れたのは8月下旬の平日。なのにやっぱりなかなか混んでいて、何度か並び、受付をすませてやっと最初の展示室に入る。
 
 色とりどりの小さな毛糸玉が、細い透明のテグスで吊るされて、薄暗い部屋にいくつもちりばめられて息をのむ。三方の壁は濃いグレーに沈んでいるが、一方の壁一面は立派なガラス張りの展示ケースで、その中だけが白く煌々と明るい。毛糸玉はその照明をあびて月のようにほんのりと輝く。色鮮やかなのに、毛糸玉たちは光を柔らかく飲み込んで、あくまでふんわりと宙に浮かんでいる。しびれる。
 
 展示ケースの中にも外にも、いろいろな小さなものたちが配されている。以下のインタビュー記事によると、ケースの内側が「生の外」で、毛糸玉に彩られたこちら側が「生の内」である、ということだ。

 ところどころに、ケースの中と外、まるで鏡に映したような位置にガラス玉が吊り下がっている。ひとつは実在でもうひとつはガラスの反射か、と一瞬思うけど、よく見るとちゃんとどちらも実在していて、そこで一瞬にして境界のガラスが消えて、向こうとこちら、つまり生の内と外がつながる感じがした。生と死の壁は、あるようでなく、ないようであるのか、となどと考える。
 
 ガラスケースの対面には木製の長ベンチ(これも作品のひとつ)が置かれているので、場所を変えつつ座ってぼんやりする。毛糸玉が醸し出す浮遊感のせいか、室内の人々もどこか地に足がつかず、ふわふわさまよっているように見える。どことなく黄泉の国っぽい。
 そこによほど暑いのか、しきりに扇子をぱたぱたしながら展示を眺めるおじさんが歩いてきた。夢見心地の常吉などとは違ってしっかりした足取りで、力強い。おお、この人は現世の人だ。おじさんの頭上で、テグスで吊られた風船が弾けるように揺れた。

 第二会場までは、館内をちょっと歩く。 
 考古史料の通常展示室に寄り、超有名なメガネ土偶を眺めたり、銅鐸の複製品をカーンと鳴らしたりして少し休んだ。それから、内藤礼展の次の会場に入る。ここでも少し入場待ちをした。

 高い天井、左右には背の高い巨大な窓、ひびがあちこちに走る古びたタイル貼りの床。少し小さめの体育館というサイズの部屋である。
 
 さっき、外で入館を待っている時はにわか雨に降られたけれど、今は晴れて、陽光がどの窓からも差し込んでとっても明るい。ここは照明なし、自然光だけでの展示である。
 高い天井から、細かなガラス玉がいくつも、テグスで吊るされて空調の風にごくゆっくりと揺れている。それらの数も位置も、ミニマムだがさびしくはなくて、絶妙な配置だといつも思う。そしてひとつひとつがきらきらと輝いて、いくら眺めていても飽きない。近くにあるものは細部までよくわかる。豆のようないびつな形がかわいらしい。
 吊るされているのはガラスだけでない。薄い石片だったり、「まぶた」と題された銀色のきらきらした紙片だったり。広大な空間に、またガラスケースによりそうように、ゆらりと下がっている。細い木の丸棒がすっと立ち、上りと下りが交錯する。

 会場の端っこに、木製の小上がりみたいな長い台座があって、大勢の人が自由に座っていられる。桐製でさらさらと手触りがよい。そして中央近くにも、一人サイズの台座があって(座る方向が指定されている)、ここに座れば作品の目立つ一部になれてしまう。立つわけではないけどちょっとしたお立ち台だ。多くの人は足を前に投げ出して、体育座りになったりだらりとくつろいだりするが、靴を脱いで、法事の席みたいにびしっと背筋を伸ばして正座する人もいた。その気持ち、よくわかる。常吉はあぐらをかいて、ずっと上空のきらきら輝くガラス玉を眺めていた。
 
 床にはいくつか、旅館の部屋に置いてある金庫2個分ぐらいの大きさのガラスケースが置かれている。それぞれ、中にアイボリー色の柔らかそうなネル生地が分厚く敷かれていて、その上に、縄文時代に作られた土製の動物や、貝塚から出土した本物の動物の骨が、ひとつづつ大切そうにそっと置かれていた。
 なかでも、こどもの足型を粘土に写し取った土製品は、おっと声が出るほど生々しい。縄文人の足型、こどもだから大きさは違えど、当然ながら常吉の足と一緒の形だ。すごい。
 「日曜美術館」によると、この土製品は夭折したこどもの足型で、これを大事に持っていた親がついに死んだとき一緒に埋葬されたもの、という解釈がなされているそうだ。哀切な話である。 
 けれども常吉はそういう予習をしていなかったので(あえて番組は見ないで行った)、その日は以下のように想像した。
 
 土器を作ってるおじさんが、半端に余った粘土を手にした時、ちょっとした気まぐれを起こす。こどもの手形や足型でもとってやるか。それでそこらにいたよそのこどもの手足を借りてぺったんと粘土に捺した。だけど粘土も貴重なものだし、ちゃんと器にして有効に使わねばならない。握りつぶそうとして、しかしそのぷっくりした足型があまりに愛らしいと思い、ついつい手元に残してしまう。かといってそんなに大事にしてた訳でもないのだが、おじさんの死後、誰かがそれを見つけ、なんとなく一緒に埋葬したい気を起こす…そういう呑気な空想も、明るい陽光のもとで、そんなに違和感はなかったのだった。
 
 ガラスケースの上には、小さな石、短く切ってゆるくほぐされた毛糸、絵の具がぽつぽつとしみこんだ絵画、少しだけ削られた木片などが置かれている。はるか昔の生の痕跡への、ささやかなお供えのようだ。木片は武骨に立てて置かれていてどこか位牌っぽい。ほんのわずかにノミが入った無名の位牌。常吉の位牌もこんなのにしてほしいな、などと思う。
 そして眺めているうちに、こうしたものたちをほんの少しだけ触ったり、手に取ってみたくなる。お寺の賽銭箱の前で、1本10円の線香を手に取って、火をつけて、供えるみたいに。
 でも、ダメゼッタイです。ひとつだけ、息をふきかけていい作品「恩寵」があって、それをフーッとするとたいへん気が済んだ。なんでもない布切れだが意外にも繊細に動くので驚かされる。

 唯一、縄文の遺物でなく、新たに作られた作品を収めたガラスケースがあった。中には猫の毛玉!作家が飼っていた茶トラ猫の遺毛(?)だそうである。
 これが、信じられないぐらい美しかった。猫の毛でこんなにきれいな玉ができる、ということそのものに驚き見とれる。
 常吉も、以前飼っていた猫の毛玉を戯れにいくつも作った。適当に丸めただけでどうにも汚らしい出来で、当の猫に投げつければいやな顔をして、遊んですらくれなかった。それでぽいぽい捨ててしまったけど、今となってはもうちょっとまじめにきれいに毛を丸めて、ひとつぐらいとっておけばよかったと思う。
 この、長寿をまっとうしたとんちゃんの毛玉の上にも、愛らしいお供えの品々が置かれていた。


とんちゃん、20年生きたみたいです

 とこうして書いていると、なにか全体に死んだものへの追悼の部屋みたいなのだが、それはなんか違う気もする。死を悼むとか哀悼とかは、生きてる人がすることだ。もっと引いて、生きてる人という立場を離れてみたら、生きるも死ぬも、波や風の流れ、天体の運行なんかとほとんど同じ…なのだが、生命が生じたり滅したりすることと、天体の運行とはなんだか違うところもある気がする。その、なんだか違うところについて考えさせられる、そんな部屋だと思った。だから、お寺とか神社とか教会とかに参拝するのとはまた別種の、しかしまぎれもなく宗教的な体験をしてきたのだと思う。
 
 名残惜しいけど最後の会場へ。とても居心地のよい本館1階ラウンジの床に、水を満たしたガラス瓶がぽつりと置かれた第三会場である。ここはラウンジでありつつ通路でもあって、ひっきりなしにがやがやと人が通る。
 
 壁のモザイクタイル、大きな窓から見える蓮池、ふかふかの大きなソファ。その明るい部屋に置かれた、水をいっぱいに満たした小さなガラス瓶は、光をいっぱいに集め、そしてものすごく人を引きつけてやまない。通常の展示を見に来ている人々が、皆立ち止まり、スマホを取り出しシャッターを切る。こどもがぱたぱたと駆け寄る。
 そのたびに監視の方が「作品ですので撮らないでくださーい、あっ、近づかないで!離れて見てくださいねー。No photo!No photo!触らないでね、気をつけてくださーい」とたいへん忙しそうであった。今にも不注意な人が作品を蹴り倒してしまいそうな喧騒の中、たった一人での監視はさぞプレッシャーがかかるだろうと思われそっと同情した。
 
 しかしどうにも騒がしくて辟易する。
 三方の壁に小さな鏡が埋め込まれているそうだが、見つけられぬまま、常吉はすぐその場をあとにした。ちなみにこれまでの会場にも大小さまざまな鏡がいくつかあって、それらはすべて「世界に秘密を送り返す」というタイトルが付けられている。光の加減でビカッと光ってとても目立つこともあるし、よく探さないと見えないこともある。秘密にもいろいろあるのだった。そして、鏡は大きさはいろいろながらごく普通の平坦なものだから、送り返された秘密はあまりにも見慣れた自分の平凡さそのもので、なぜか少々びびってしまう。

 時々、ふと見上げた空がとんでもなく美しくてうれしくなってしまうような経験を、ぎゅっと濃縮して、また広い空間に放ったような展示だった。
 豊島美術館もそうだけど、同時代に、同じ日本国内でこうした作品に触れられることがほんとうにありがたいと思う。

  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?