参政党現象について

今の参議院選の参政党現象、色々と今の日本の政治の縮図だと思うので一応書いておく。

まず私の政治家としてのスタンスとして、他の政治家や所属していない政党や政治団体の批判は基本的にしない。思想や政策に関して異を唱えることはあっても、それを選ぶのは有権者であり、同じ政治家の立場としては、ひたすら自らの考えを伝えて判断を有権者に委ねるのみだ。逆に一致点があれば合流するなり共闘した上で有権者に判断を委ねる。数が勝負の今の仕組みでは、似た考えの政党が複数あっても票を割るだけだからだ。だから野党はまとまれと言う人が多いが、ここではっきりさせなければいけないことがある。それは「一致点」とは何か?である。

一般的にはそれは政策だと思われているが、私は今は全くそうは思っていない。3年前の参議院選では、緊縮一色の既存政党ではなく、積極財政の新しい政党が必要だと思ったかられいわ新選組に参加したが、今は一致すべきは未来のビジョンだと思っている。政策はそのための手段に過ぎず、そこで一致できるからと言って、大きな目的が一致できなければもはや一緒にはできない。これは私の時代認識なので、多くの人が同意できるものではないと思うが、私の中のこの3年は、一切の妥協が不要、むしろ邪魔になり、純粋に自分のイメージを突き詰める者たちがそれを実現させる時代に入った3年だった。そしてその大きな目的とは「究極の自由」であり、それは国家の解体すら見越したものだ。なぜなら、今起きている変化は恐らく、この二千年ぐらいの周期で起こる大変化、すなわち、全ての人間関係に潜む支配と依存のピラミッド構造が完全に壊れることであり、国家すら例外ではないと思うからだ。もちろんこれは一般的な認識とは多分ズレており、故にそこで一致できる政党も政治団体もなく、さらに自ら旗揚げするほどの力もないため、今回の参議院選は見送らざるを得なかった。さて、そんな視点から参政党現象を見てみよう。

まず、神谷氏には私も何度か会っているが(動画も一緒に撮っている)、彼の志を疑ったことはないし、彼自身はかなり自由な人だと私は思っている。だから恐らく、各候補者の主張することに対してあまり統制を行なっていないし、党の政策と矛盾するような言動があちこちに散見されるのだと思う。ある意味、保守と言いながら、既存の似非リベラルよりも遥かにリベラルに見える。ただ、今の政治の枠組み(組織に個人が染まらなければならないという集団至上主義)における党のガバナンスとしては、有権者にもわかりにくいし、どうなのかという意見もあるかもしれない。しかし、ちょっと考えてみて欲しい。これだけ短期間にあれだけの候補者を立てる中で、どこまで最高の人材を揃えられるのか、自分がその立場に立った時に、それがいかに困難なことなのか容易に想像できる。そしてそれをしなければ戦えない選挙システムの中で、完璧ではないことを批判してもゼロイチは生まれない。また、政策自体これから決めるというのも、民主主義の本質からすると理にかなっている。むしろそれが理由で選べないという人は、恐らくシェフお任せのメニューは選べないという消費者根性に染まっていないか?有権者は消費者ではない。オーナーだ。オーナーはもちろんメニュー作りから参加する。神谷宗幣が参政党という党名にしたのは、そこから一緒にやろうというメッセージではないのか。

と、ここまではかなり参政党に好意的な論調に思えるかもしれない。だったら一緒にやればいいじゃないかと。しかし、先述した通り、もはや大きな未来のビジョンが一致しないと難しい。恐らく神谷氏と私の決定的な違いは国家観だ。それは憲法改正に対する考えの違いにも表れ、実はそれで一本動画がお蔵入りになったことがある。それは、例によって経済や金融の動画を撮っていた時だが、動画の最後に彼が「だから憲法も改正しなければなりませんよね?」と唐突に口にした(彼の中ではそれはつながっていたのだろうが、私にとっては別問題だった)。私はそこで「そうですね」と言って流す人間ではないので、「いやちょっと待って、俺はそうは思ってないけど」と変な雰囲気になり、収拾がつかなくなってそのまま動画がお蔵入り。後日談として、この件について3年前にも一度話をしたが、その時は「今は改正できない」で一致した。その後彼がどう考えているのか話していないが、恐らく自民党の憲法改正案には彼は反対するだろう。ただ、彼の中では日本という国に対する特別な思いがあり、自主憲法に対する思いは強いと思われる。また、天皇制についても国家の根幹を成す部分と考えているように見える。そしてそこが私は相容れない。

ここからは私の意見だが、私は現行憲法は多少古くなった部分はあれ(例えば勤労の「義務」とか納税の「義務」はもはや時代遅れ)、現行憲法は極めて良く書けていると思う。特に、あの戦争が炙り出した日本人の病理に対する処方箋として。それは、天皇を中心にした国体維持のため、個人の基本的人権よりも集団を優先し、300万人以上の犠牲者を出しながら、最後の最後まで戦おうとした異常な精神性。恐らく、これをどう捉えるかによって憲法観は全く違う。私は、だから現行憲法は、第一章で天皇は象徴であると釘を刺し、第二章で戦争そのものを放棄し、第三章で個人の基本的人権を明記し、そして前文でその存在意義を理想的に語って新生日本に呪文をかけたように思える。それを呪いの呪文と捉えるか、祝福の呪文と捉えるか、それは戦争の捉え方次第だ。確かに戦後の占領政策で、自虐的歴史観を植え付けられ、主体性を失い続けて来たという意味においては神谷氏に同意する部分もある。しかし、それでもなお、今の日本の状況を見るにつけ、個人の基本的人権がほとんど理解されていないと思わざるを得ない。だからこそ、この極めて西欧的な押し付け憲法はまだ我々にとって必要な呪文であり、祝福であり続ける。いつかこの憲法を改正する時が来るとすれば、それは私は天皇制を廃止する時だと思っている。なぜなら、私は全てのピラミッド構造が世界的に壊れるのが時代の必然だと考えているからだ。もちろんその中には天皇制も含む。そして恐らく、この点では神谷氏とは一致できず、しかもお互い一番譲れない部分に違いない(彼の意見は最近聞いていないのでそちらはあくまでも憶測)。

今、参政党を支持している人がこの点についてどう考えているのかはわからないが、逆に支持できないと思っている人の多くはこの国家観によるものかもしれない。または、急に出てきた政治団体が一定の熱を持って支持を伸ばしていることに対する警戒感、それはもしかしたら、日本の政治にありがちな救世主待望病の依存症状に見えるのかもしれない。いずれにしても、そう考える人たちはある程度自由な人たちだ。もし私が考える通り、世界中の支配と依存関係が壊れる時代が来るとするなら、同じように考える人たちが一定数いて、その人たちからすると、特定の政治家や政党に熱狂すること自体、まさに支配と依存の関係に見え、思わず参政党を批判したくなるのかもしれない。しかし私はそれに対してこう言いたい。仮にどう見えたとしても、支持している人たちが本当に何を考えているかは誰にもわからないし、みんな違う。そして、その人たちをもし批判で変えようとしているなら、それも支配と依存だと言わざるを得ない。もしあなたが支配と依存の構造が壊れる自由な時代を望んでいるのなら、自らその思い込みを手放した方が早くその時代に行けると思う。

いずれにしても私は、この世界は確実に自由へと向かっていると考えている。何も心配はない。今起きているあらゆることは、そのためのプロセスであり、全てが必然だ。あらゆる政党も政治家も、その未来を作る要素であり、あなたもその一部だ。その中であなたがどうするか、その役割は多分あなたしか知らない。それが特定の政治家や政党を支持したり応援することかもしれないが、多分それだけではないはずだ。国政選挙なんて数年に一回しかない。そのために全ての人が生きているというよりも、それ以外のためにほとんどの人が生きていると考えた方が妥当だ。そして、その人たちが自分がなすべきことをした時に、初めてそれぞれの役割のピースはハマる。そしてその後に、この国の「支配者」を決めるという前時代的な仕組みを壊すための結果が、この前時代的な選挙で出るのではないかと思っている。だからそれまでは、私は自らの役割に淡々と向き合い続ける人たちと繋がって、少しでも世の中を変えて行けたらと思う。それが今、私が考える新しい時代の政治である。

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