「すべてが愛(神)である」を深める

「すべてが愛(神)である」とは、真理そのものであり、また真理への入り口でもある。

よく確かめてみよう。

この「すべて」は本当には全てなのか?
この「愛(神)」は、本当にそれなのか?

人は、認識できるものをすべてとする。

では、本当にすべてかどうかどのように確かめられるのか?

認識できないものは、そもそも想定できない。
しかし、もし疑問(思考)が生じるならば、それはすべてではない。
そこでまず頼りになるのが聖典である。

また別に言えば、主体と客体の分離があるかどうかである。それによって、部分が生じるから。

なにかを「それ」と見るとき、すべてではなくなる。
すべてには、「それ」と名付けるようなものや、内と外の境界や、私とあなたの分離がない。

すべてとは、認識できないという認識である。
それが透明さや非顕在のものだ。
※しかし、これにも混ざることがある。全体的な光であり、その光って見えるものは自我である。

その過程には(認識できないこと、ものへの)不思議さがある。
それへの疑問(探究)が止んだとき、それがすべてである。

次に、なにかを感じるとき、そこには多様性がある。
ある部屋にいると匂いを感じないが、別の部屋から移動してくると匂いを感じるのは、差異があるから。
多様性がなければ、なにを感じても、それを認識しない。
そのため、「愛(神)」には身体意識(五感)が働かない。
そして、感覚に伴う思考もない。
あるとすれば、根源の想念であり、それが「愛(神)」と呼ばれるもの。
それは、存在の感じであり、特定の感覚ではない。

この認識作用の没入状態を「サマーディ」と呼ぶ。

感覚的な喜び、恍惚、美しさは素晴らしい体験だが、そこにはまだ自我が混ざっている。

それらは、認識作用が無いというよりも、主体と客体の合一体験(ワンネス)というものだろう。

合一があるならば、分離もある。そのため、この合一体験(ワンネス)には制限(条件付け)が残っている。

そこから、真実と幻想(自我)を選り分けていくのが、霊的な識別である。

純粋な「愛(神)」は、静かな至福であり、制限から解放された自由さである。
それは、自然さであり、本来性のものである。

それは、分離を前提としない、一なるもの。
しかし、さらにそれすら捨て去って終える。

無知な人にとって、この身体は苦しみの源だ。
だが、光明を得た人にとって、この身体は限りない喜びの源だ。
身体が存在する間、賢者は身体を通して大いなる喜びと光明の至福を楽しむ。そして、寿命が尽きてもそれを損失と見なすことはない。
光明を得た人にとっては、身体そのものが限りない喜びの源泉だ。そして、彼は身体を、この世で自由に喜びに満ちて動き回るための叡知の乗り物と見なすのだ。

「ヨーガ・ヴァーシシュタ」

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