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カムカムエヴリバディに見る「赦し」と「和解」の真髄は……

すっかり、カムカム×NVC記事を書き連ねるnoteとなっているけれど、そもそもこの場は、NVC(非暴力/共感的コミュニケーション)とキリスト教の関連性に関して小話を書こうとして始めたのであった……なんてことを、第107話を見たときにハタ!と思い出したのでありました。

で、カムカム最終週の場面はクリスマスだし、クリスマスの奇跡が起こりそうだし(クリスマスの奇跡=老人たちに爆発的なパワーを起こさせる……算太のダンスしかり、今朝110話での安子の激走しかりw ではないよ!)、今回は”カムカム×NVC×キリスト教”をからめて書いてみようと思います。 

107話で着目したセリフは

るい「みんな間違うんです、みんな……」

病床の雪衣の懺悔を聞いたるい。その内容は、かつての昔雉眞家の人たちを思うあまり、安子に対する「腹黒い気持ちが湧いてきて」、幼いるいに「安子さんは雉眞の家にるいちゃんをお返ししようとしている」と吹き込んでしまったこと。それが二人の別離を招いたのだと思い込み、雪衣は長年苦しんできたと言う。その雪衣の手をとりながらのるいのセリフです。

また、雪衣が亡くなった後この話をジョー(錠一郎)に告げたるいはポツンとつぶやきます。

るい「お母さんに謝らなあかんのは、私や」

この回をみて、カムカムのテーマの一つである「赦し」と「和解」は、まんまキリスト教のテーマでもあるんだよな、といまさらながらに思い至ったわけです。

ヘンリ・ナウエンさんも、NVC遣いです( ワタクシ的認定!)

キリスト教の和解について私があれこれ書くこと以上に、このシーンにぴったりの「あ、あれだよ!」と思う文章がありますので、ここで一部を引用しますわ〜。

1月26日 赦し、自由への道
 誰かを心から赦すということは、解放の行為です。その人と私たちの間にある否定的な束縛からその人を自由にします。「もうあなたに腹を立ててはいない」と言うことには、それ以上のことが含まれています。つまり、私たち自身を「侮辱されたもの」であるという重荷から解き放つのです。自分を傷つけた人を赦さないでいる限り、その人を一緒に抱え込んでしまい、もっと悪いことには……中略……赦しは他の人を解き放つばかりではなく、私たち自身をも解き放ちます。……

ヘンリ・ナウエン著 嶋本操監修 河田正雄訳 酒井陽介解説『今日のパン、明日の糧〜暮らしにいのちを吹き込む366のことば』(日本キリスト教団出版局刊)

カトリック司祭にして心理学を学び、多くのキリスト教大学・神学校で教え、また信仰者として数多くの著作を記した、ヘンリ・ナウエンという人がいます(1932-1996)。上記の引用は『今日のパン、明日の糧〜暮らしにいのちを吹き込む366のことば』(日本キリスト教団出版局刊)のP51から。1年366日分の、短い、しかし含蓄あるエッセーが掲載されており、我が家では食卓に置いてあって、朝食のときなどに目を通したり、声に出して読んでみたりしています。

で、日々読むたびに「ああ、ナウエンさんはNVC遣いだなぁ」と納得してしまうんですよね。もちろん「ナウエンさんがマーシャル・ローゼンバーグの提唱したNVC非暴力コミュニケーションを学んでいた」という意味ではありません。生き方、ものの捉え方、在り方がまさにNVCに通じるのです。

まあ私にしてみれば、我が主・我が友ジーザスこそが生まれながらのNVCerなわけで、聖書の中には彼のさまざまなNVC発言、NVC的共感、そしてNVC的空気読まない行動が見て取れて面白いんですよ〜。いやぁ、ジーザス、好きだわー!

先に愛されていることを知り、愛するものとなる

るいのセリフに戻ります。
「みんな間違うんです、みんな」と口にした”みんな”に、るいが母安子を、また自分自身を含んでいることは明確でしょう。そして、この言葉とともに、るいは自分自身を解き放つ道へ歩みだそうとしていると、私は解釈しました。

多分、るいの安子への赦しは、このシーンよりもずっと前から少しずつ成っていたのではないかと思います。「母には母の事情があったのだ」と、人生を重ね、夫を支え、仕事をし、子育てをしていく毎日の中でるいは納得していったのだと私を含む多くの視聴者が理解しているはず。

その赦しは、ナウエンさんの「「侮辱されたもの」という重荷から解き放つ……」という言葉に当てはめれば、るいにとっては「「捨てられたもの」という重荷から解き放たれる」ことでした。

しかしこの赦しを最後までやり通すと、裏返って「母を拒絶した」自分に向き合うことが迫ってくるのです。その自分を受け入れたセリフが、ジョーへの告白とも独白とも聞こえる「お母さんに謝らなあかんのは、私や」でしょう。

ここまで、50年の歳月が必要でした。
そしてるいがここにたどり着くことができたのは、るいに多くの愛情が注がれたからだ、と私は言いたいのです。

先に(神に)受け入れられているから、受け入れることができる。
先に(神に)赦されているから、赦すことができる。
先に(神に)愛されているから、愛するものとなることができる。

私たち人間は、たとえ神の存在を知らないとしても、神に受け入れられている、先に神に赦されている、先に神から愛されている……とキリスト教では伝えています。
(ちなみに神の存在を知っていてキリストの救いを告白するクリスチャンであっても、日常で、神に受け入れられている、赦されていることを全面的に信頼するのが難しい人は、私を含めてたくさんいるんですけどね。)

神から無条件の愛を注がれている存在である自分に気づくと、なにも見返りを求めず愛することができる。それが「赦し」から「和解」に至るプロセスの土台となる……というキリスト教の教えは、NVCでいう、先にじゅうぶんに共感が満たされているから、他者に共感できる(マーシャル・ローゼンバーグの言葉でいえば”We need to receive empathy to give empathy.”)と、非常に近しいものだと私は考えています。

さて、神はどこで働くのか、といえば、人の中で働きます。

少女時代は孤独で頑なだったるいですが、そんな彼女にたくさんの愛が注がれてきたのを、私たち視聴者は見てきました。竹村夫妻をはじめ、ただただ愛を注ぎ続けたジョーの存在、素直な子どもたちからの愛、ベリー・一子の親愛……多くの人たちからの愛を受けて、るいは50年を経ていよいよ自分の内にある母への愛を認めるときが来たのを感じているのではないかと。

るいは、自分自身を解放する準備ができています(よね?)。自分を解放して、"I hate you"を放ったことを母に謝り、扉を閉めた赦しを請うことができる。歌が、ステージで歌うOn the Sunny Side of the Street がるいを解放するでしょう。

願わくば、アニー=安子も「娘を捨てた」という呪縛と自責から解放されて自分自身に戻ることができるようにと、固唾を呑んで見守るカムカム、あと残り2日です。

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