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自己紹介⑤

メリカでの3年間の駐在生活を終えてその後の15年間は他社との協業の時期でした。


社会人時代 1997年~2013年

1997年~2010年 Fordプロジェクト時代

3年の任期を終える帰国直前に飛び込んできたのはMAZDAがFord社の傘下に入るというニュースでした。

帰国後は、ファミリア(今のマツダ3の前身)の排ガス適合開発の機種リーダーをすることが決まっていた。

しかし、帰国後ひと月も経たないうちにFordプロジェクトタスクチームへの異動となったのです。

Fordプロジェクトでは当然英語でのコミュニケーションが必須で駐在経験者の多くがタスクチームに集められたのです。

異動の際に上司から言われた一言は、

「加藤くんのエンジン開発の技術力を期待してるのではなく、英語力に期待している」と言うものだった。いくらなんでも失礼ですよね?

「え〜、そこなのね?!」と多少へこみましたが、

落ち込んでいる暇はなく、連日Fordエンジニアとの会議に出席しては、技術通訳をする日々が続きました。

Ford社とのジョイントプログラムは手探りで、異文化とのすり合わせの作業でもあった。

よって、僕の仕事は異なる文化背景、異なる会社のものづくりにおける共通言語を作ることであった。

駐在の経験は語学力だけでなく欧米人とどう仕事をスムーズに進めるか?を知る経験をしていたので、その経験はここで大いに役立った。

年に数回はFord本社で開催されるの技術会議へ行くことになり、入社当時の志「海外で働く」は姿を変えて「世界を相手に働く」という第2章が始まった。

Ford社との異文化理解が進んで仕事のやり方がほぼ見えてきて軌道に乗り出して頃、開発の担当者らは自ら英語を駆使して仕事を進める様になり通訳の仕事は段々と減って行った。

英語は仕事を進める上での武器になる、開発担当者たちは必要に迫れれて英語と言う武器を身につけ磨きをかけていき最強のエンジニアと成長していた。

一方の僕はといえば、初めから武器は持っているが単なる道具であり、その武器を活用する場所がなくなっていった。

順番が逆であるが英語という武器を使うためには、今度は「エンジン開発の技術力を磨く」必要があった。

そして、私も本流のエンジン開発も担当することになった。それからも、Ford社とのエンジン開発の定例進捗会議へは出席を続け、Fordエンジニアとの仕事は続く。

MPV搭載の2.3L エンジン、Atenza搭載の2.3L、2.5L エンジンなどを開発を担当したのです。

自分の開発したエンジンを搭載していたMPVは長らく我が家の愛車で、家族でキャンプへ行ったり、息子のソフトボールの送迎など大活躍していました。


順調に見えていた会社人生も少しずつ歯車が狂い始めてました。

昇級して、仕事の範囲が広がった時に自分の未経験の領域まで知らないといけないと思い込み、自分で勝手に「~ねばならない」を作り、がんじがらめにして、他人と比べもっと成果を上げないと!!でも、出来なくて、恥ずかしい自分を見せられなくて自分が役に立っていないという劣等感と罪悪感に包まれていきました。
妻の病気、自分のバイク事故、など重なりとてもしんどい時期を過ごしまていました。

2010年~2013年 トヨタ協業時代

Fordプロジェクトの縮小に伴い、ライン開発から外してもらい、今度はTOYOTA社との共同プロジェクトタスクへ参画することに。

部署を異動せずタスクメンバーとしての参画でとても難しい立場であった。
所属部署とタスクチームとの方針の違いの板挟みで、会議の途中に自分を見失い飛び出すとほど追い込まれてました。

そこから長い長いトンネルの中を彷徨うようになり、家庭内でも問題を抱えるようになり、何に対しても気力がなくなり会社へはなんとか行っている感じでした。

単独でTOYOTA技術を理解することが仕事で、ほとんど人と関わることない仕事、会社と家との往復でとても閉じこもった生活が続きました。

きっと、無気力にとてもつまらなそうに過ごしていたと思う。

40代は激動の10年でしたが、50代は?

きょうも最後までお付き合いいただきありがとうございました。



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