非日常と無駄の中に幸せがあるという話

2020年初めから新型コロナウイルスの影響で生活がいろいろと変わってしまったけど、9月頃から急速に感染が落ち着きはじめ、まだ元通りには程遠いけど、いろいろなことが少しずつもとに戻りつつある。


仕事柄、これまでの感染状況ではリスクを冒す気にはならず、自分自身の自粛には納得していたけれど、それでも、「コロナ禍では不要不急の活動を控えるのが当然である」という風潮が続いていたことに、とても居心地の悪さを感じていた。

余命数カ月と宣告されている人にとって、遠くに住む家族に会いに行くことは不要不急で自粛すべきことなのか、とか、
死ぬ前にもういちどロックフェスに行きたいと願うことは批判されるべき行為なのか、とか。
このnoteで何回も書いているけど、誰もが必ず死ぬ運命からは逃れられないし、死が明日なのか数年後なのか数十年後なのかは誰にもわからないんだから、それが「不要」とか「不急」とかは言えないはず。

そして、何を大切にしていて何を優先するかはその人次第で、他人にはわからないし、口を出す権利もない。
感染するリスクより大切なものがその人にあるならそれを優先するべきだし、それを批判するのは筋違いだと思う。


生きていること、それ自体は「目的」ではない。
何か別のことをする、それが目的であって、それには生きていることが必要だから、目的のための「手段」として、毎日を生きている。
それが自分の人生観。

そしてその「目的」もシンプルで、幸せでいること、ただそれだけだ。
幸せになるための方法も手段も問わない。結果的に自分の幸せに通じるならそれでよいと思う。

そんなことは当たり前のような気もするけど、でも実際、どうすれば幸せになれるか、その基準は人それぞれだし、相対的な部分もある。
「こうなれば誰もが幸せになれる」という絶対の正解はないから、案外難しい。

人生、よいこともあれば悪いこともあるから、いつもいつも幸せでいることは難しい。
運をコントロールすることはできないし、自分以外の周りの人を変えることもできない。


自分が思う、幸せでいる時間を増やす方法はふたつ。
ひとつは、自分を深く、深く知ること。
そしてもうひとつは、自分をよく知ったうえで、自分の考え方を、より幸せを感じられるように変えていくこと。

自分のことを誰よりもよく知らないと、偶発的な幸せしか得られない。
自分がどういうときに幸せを感じるのか、そしてそれはどうやったら再現できるのか、それを突き詰めて考える必要がある。

そして、自分の特徴(性格と言い換えてもよい)をよくわかったうえで、自分が納得できて実現可能な範囲内で、考え方をよりよい方向に向けていく努力を、根気よく続けていく。
例えば、内向的な人が「社交的になろう」と思ってもなかなか難しい。
「社交的にならないといけない」という考え方を変えること、内向的な性格のまま、可能な範囲で社会と折り合いをつけて生活し、そして自分の楽しみをみつければいいと思う。

逆に、幸せを感じるために邪魔にしかならないことは、誰かの評価を気にすることだ。
幸せの基準は自分の中にしかない。誰かにとっての幸せが自分の幸せとは限らない。
誰に何を言われようが、自分の幸せのために、お金や時間、労力を使うべきだと思う。


前置きが長くなってしまった。

自分の日常のなかで多くの割合を占めているのは家庭と仕事だ。

そして、仕事の方は、もちろんその経験が自分を大きく成長させてくれているし、もらった言葉にたくさん勇気づけられていることも確かではあるが、シンプルに割り切れば、仕事はあくまで生きていくための「手段」であって人生の「目的」ではない。

家庭の方は、言うまでもなく自分が生きている目的の大部分を占めているし、家族は命より大切な存在だ。
家族と過ごす当たり前の日常のなかにたくさんの幸せがある。

でも、家族と過ごす時間のなかには、当たり前だけど、生きるための「手段」である時間が確実に存在する。
そして、家族と過ごす日常はもちろん幸せなんだけど、ずっとその日常が続くと、そのありがたみを感じにくくなり、「手段」としての時間が長くなってしまうように思う。

昨年2月頃から1年半、みんなが家の中にいる時間が格段に増えて、家族が大好きな自分はそれ自体ストレスではなかったけど、どこにも出かけられない、人に会えない、そういう期間が長引くことはやはり家族それぞれの
余裕を徐々になくしていったし、息が詰まると感じたことも多かった。

そこで、改めて、ライブに行くという「非日常」が、どれだけ自分にとって大切だったかを実感した。

「ライブに行く」ということは純粋な「目的」であり、それは生きるための「手段」ではない。
わざわざお金を払って、時間を使って、遠くからライブ会場に足を運ぶという行為は、生きるために直接必要なものではなく、むしろ、興味がない人から見たら、無駄ともいえる行為だ。

でも、その「無駄なことをわざわざやる」ことが生きるための「目的」なのであり、それこそが純粋な幸せにつながるのだと思う。


9月頃から感染者数が急激に減少し、緊急事態宣言も解除され、都内の感染者数も50人以下で推移するようになり、ようやくまた都内にライブに行ってもいいかなと思えるようになった。

何度かライブに行かせてもらって、観たライブがすべて素晴らしかったということは当然大きいんだけど、やっぱり自分はこの場所が好きだし、大げさに言うとこれこそが生きる目的だなと感じることができた。
1年半以上も欠けていたパズルのピースがようやく埋まったような感覚。

この日々が返ってきたことが本当にうれしいし、この先も続いてくれることを強く願っている。


本当は、ライブに行けなかった期間と、やっとまたライブに行けることになったなかで考えた、「自分はなぜアイドルを推すのか」を書きたかったんだけど、長くなりすぎたから、それは別エントリーにします。

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