「生と死は等価値なんだ、ぼくにとってはね。」


「自殺はなぜいけないのか」を考察したくて探していたら見つけた本。

こういう本は、ただ読むだけでは何も与えてはくれない。内容に刺激を受けて、自分なりに解釈し、その上でたくさん考えて、自分なりの考えを導かなければ、ただ「おもしろかった」とか「つまらなかった」で終わってしまう。

書かれているのはあくまで著者の人生観であって自分のではない。共感できるところもあればまったく共感できないところもある。それが当然だ。でも、それを考えることで、漠然としていた自分の人生観、死生観が少しずつ形になるのだ。

そういう意味で、自分に刺激を与えてくれる、よい本だった。


「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?」

正解などないし、万人に共通する答えもない。

そのときそのときの、自分なりの答えを、著者も、自分も、一生考え続けていくのだろうと思う。


ソクラテスは、「人々にとって死は生よりもよいものである、そのことだけは他のすべてとちがって絶対的である」と語る一方で、「人々にとって死はとてもよいものなのだが、その人々自身が自らにそのよいことを為す(自殺をする)のは敬虔なことではなく、他のものにしてもらうのを待たねばならない」と話したそうだ。

そして、自殺をしてはいけない理由として、「神々は僕たちを支配するもので、僕たち人間は神々の所有物のひとつにすぎない」「だから、神が、ちょうど今僕たちの手元にあるような何らかの必然を、送り込むより先に、自殺してはいけないということは、理にかなっていないことではない」と言ったという。
つまり、神々の所有物たる我々は、神々が納得するような理由がない限り、自殺してはいけない、と言うのだ。

神を信じていない自分にとっては全く納得できる理由ではない。

「神」を、「本能」と置き換えてみたらどうだろう。自殺は本能に反しているからしてはいけない、という理屈だ。

たしかに直接的に自殺をする生き物はいない。しかし、コチドリの擬傷や、ハサミムシやある種の蜘蛛のように、子孫のために自分の命を犠牲にする生き物は存在する。これはある種の自殺ではないだろうか。

生物の本能は、個体の生命よりも子孫を残すことを明らかに重視している。遺伝子を残すことが自らの生命より優先されるのが本能であるとすると、子孫のために自殺する(例えば子供に臓器提供するために自殺を選ぶ)ことは是なのか?

というか、話は少し逸れるが、そもそも、遺伝子を残すことより自らの生き方や幸福を優先し、結果として全世界的な少子高齢化を招いている現代の価値観は生き物の本能に背いているわけで、それは神の意志に反していると言えるのではないか?

神を本能に置き換えたとしても、自分にとっては納得のできる説明にはならないようだ。


そして、ソクラテスの回答にはもうひとつの疑問がある。

「神にとっての『何らかの必然』があるなら、自殺してもよいのか?」という疑問だ。

自殺というものをいくつかの見地から考察してみる。

○自殺の違法性

キリスト教文化圏では自殺は明確な罪ととらえられてきたが、日本においては、自殺に対する批判的な見解は少なく、切腹にみられるように、場合によってはむしろ美徳とされるような背景があった。
日本の刑法において、少なくとも自殺自体を処罰する法律はない。自殺幇助罪や嘱託殺人罪はあるが、これらは自殺した当人を対象とした罪ではない。
そもそも、自殺自体を処罰する法があったとして、処罰される当人がすでに死んでいるのだから意味をなさないと言える。

つまり、自殺自体は違法ではない。

○自殺の合理性

自殺を決めた後の人生において、不幸が幸福を上回っていることが確定しているなら、その時点での自殺はある意味合理的であると言える。

当然のことながら誰も未来がわからないから、完全に合理的判断を下すことはできない。

しかし、自殺を決めた時点の幸福度が大きくマイナスに振れているとしたら、その後の人生でそのマイナスを挽回できる可能性は高くないと言えるだろう。
例えが適切かはわからないが、競艇で1億円負けている状況で、残りの人生毎日競艇に行ったとしてもトータルでプラスに持っていける可能性は低いのではないかということだ。それならその時点で諦めるという判断は合理的と言えるかもしれない。

そもそも人生とは結果ではなく過程である。その瞬間、耐え難い苦痛があるときに、「この先の人生で幸せになるかもしれないよ」という気休めになんの意味があるだろうか。

○自殺の道徳性

・宗教的見地

大多数の宗教は自殺を禁じている。
一方で「殉教」という考え方もあり、信仰のために命を失うのは正しい行為とされる。

だとすれば、結局のところまた神にとっての「必然性」の問題なのだろうか。

そもそも、自分のような無神論者には説得力が乏しい。


・功利主義的見地

功利主義とは:
行為の善悪を評価する際に結果を重視する「帰結主義」
この帰結(=結果)の中で最大多数の最大幸福を重視する「幸福主義」

自殺によって当人は救われるかもしれないが、家族や友人など周囲の人間を不幸にしているため、功利主義的見地からは自殺は善い行いではない。

では、全く知り合いがおらず天涯孤独な人間が、誰にも迷惑をかけない形で自殺をしたとしたらどうだろう。
自らにはメリットが有り、他者にはデメリットがないとすると、結果を重視する功利主義的見地からは悪とは言えないということになるのではないか。

荒唐無稽な話だが、特殊な疾患を治療できるような血液を持った人間がいたとして、彼が自殺したあとで輸血によって多くの人間の命が救われることになるなら、彼の自殺は最大多数の最大幸福を重視するという功利主義の見地から言えば善い行いと言えよう。

そして、個人の幸福を追求するという観点からすれば、個人には自らの生き方を決める権利があるはずである。
生き方とは「死ぬまでどう生きるか」であるから、死ぬその瞬間までの生き方を決める、つまり死に方を決める権利もあると言えるように個人的には思う。


・義務論的見地

義務論(イマヌエル・カント):
「それ自体が善いもの」が本当の善である
結果ではなく過程が重要であり、結果が善でも過程で誰かを害することは不道徳であるという考え

前の輸血の例で言えば、多くの人間の命が救われるからと言って彼を殺害するという行為は、義務論的見地からは不道徳となる。

確かに殺害は彼の権利を侵害しているわけだから不道徳と言えよう。では、自殺の場合はどうだろうか。

自殺とは自分を殺す行為であるから、自分が殺されるに値しない人間であるとするなら自殺は不道徳といえるかもしれない。しかし、その人の生が耐え難いほどに辛いとしたら、それは本当に自己を「害した」と言えるのだろうか?

いずれの見地からも、神にとっての必然であるかどうかはともかく、少なくとも当人にとっての必然性は、必ずしも否定されるものではないように思う。
場合によっては自殺が容認される状況が存在する、つまり、いついかなる場合にも絶対に自殺をしてはいけない、と言うだけの明確な理由が見当たらない、ということだ。

すなわち、「自殺はなぜいけないのか」という問いには、絶対的な答えは存在しない、ということになる。


自殺願望に対する医療的介入についても考えてみたい。

医療倫理の四原則:
「自律尊重」「与益」「無危害」「正義」

「死にたい」と希望する患者に対して、その意に反して生きることを強要する行為は、「自律尊重」「与益」「無危害」の原則に反している。
唯一、曖昧な「正義」という概念に則り、治療という名目で生を強いることが許されている。

もちろん、重篤な抑うつ状態など、精神症状としての自殺願望(=希死念慮)の場合であれば、自殺を防ぐことは「自律尊重」「与益」の原則にも合致していると言えるだろう。

しかし、自殺願望を持った人間は全員抑うつ状態なのか?
精神科的治療を受けるべき状態にあるのか?

さらに、背景にある心理的、社会的、経済的な問題は解決可能なのか?
外的要因(環境因子)と内的要因(価値観の問題)のどちらが大きいのか?

抑うつ状態など、明確な精神症状に起因する認知の偏りである場合、それは治療の対象であると言って差し支えないだろう。

また、精神症状の有無にかかわらない認知の偏り(つまり価値観の問題)であったとしても、本人がそれを変えたいと希望するならば、カウンセリングなどの治療対象であると言える。

では、本人が変えたくない、変える必要がないと考えているような認知の偏りがあり、それによって自殺願望を抱いているという場合、それは強制的な治療の対象となるのだろうか?
そして、その強制的な治療は有効であるのか?
そもそもそれは医療倫理の四原則に反していないのか?


以下、個人的な考えを述べる。

典型的なうつ病に伴う希死念慮に対しては、自殺しない約束をさせたり、残されることになる家族の悲しみに目を向けさせたりすることは有効であろう。

しかし、精神症状を伴わず、しかも解決できる外的要因がない状態で強く死を望むような人に対しては、上記の手段は有効ではない。
むしろ「やはり理解されないのだ」という失望を与えるだけだ。

特に、本人の価値観など内的な問題の比重が大きい自殺願望の場合、本人にとっては死が救いであるから、それをなくすための治療など希望しておらず、通院する動機がそもそも希薄であるから、それによって通院中断につながる可能性もある。
当然入院もあまり有効な手段ではない。
(家族の受け入れや心構えを作るための時間稼ぎという意味はあるが)

医療者側の都合としての治療目標は「死こそが唯一の救済である」という価値観を、どうにか変容させることである。

このためには、
・なんとか通院継続してもらう
・価値観を変容させるまでの長期間、既遂しないでもらう
ことが前提である。

本人が変える必要がないと思っている価値観を変容させるにはかなり時間が必要であるのに加えて、医療者の意見に耳を傾けてもらうことが必要である。
「この人は他の人間とは違う」「話を理解しようとしてくれている」と思ってもらってはじめて、価値観の変容に結びつくような深い話をする余地がうまれる。

なので、背筋が凍るような当人の訴えを、少なくとも見かけだけは余裕の表情で聞き、腹をくくって共感し、「人間は必ず死ぬのに、なんで自殺してはいけないんだろうね」という疑問に対し、いっしょに考えていくという姿勢が必要ではないかと思う。

世の中には、「自殺は悪いことに決まってる」「なぜ自殺してはいけないのか、なんて考えること自体が間違っている、そんなこと考えてはいけない」と考える人がけっこういて、こういう考察自体を批判的にとらえられてしまうことが多い。
自分は10代の頃からずっとこんなことを考えてきているのだが、こういう話を口に出したことはほとんどない。

だからこそ、この感覚を共有していて、話をできるひとがいたとしたら、それだけでも、そのひとがまだ生きている理由のひとつになれるかもしれない。
少なくとも自分は、その感覚を共有できたらとてもうれしい。


タイトルは、TVシリーズのエヴァンゲリオンで、渚カヲルがシンジに対して言った言葉。

「自らの死、それが唯一の絶対的自由なんだよ」と続ける。

彼は使徒として人類を滅ぼす使命をもって生まれてきている。生きている限りはその使命に縛られている。その背景が、このふたつの台詞につながっていると解釈できる。

シンジのしたことは正しい。カヲルは使徒だから嘱託殺人にはあたらないだろうし、義務論的見地からは正しくないかもしれないが少なくとも功利主義的見地からは正しい。そして、おそらくは、カヲルもそれを望んでいた。

どのような価値観をもって生きているかは人それぞれで、その辛さ、苦しさを、他人が推しはかることなどできない。
カヲルの想いをシンジが理解できなかったように。

想像を絶するほどの苦しみのなかで、今までなんとか生きてきたけど、もうその苦しみから解放されたい、もしかしたらそういう状況かもしれないひとに対して、「自殺なんて考えちゃいけない」「生きていればいいことがある」なんて残酷な言葉を、自分はとてもかける気になれないのだ。

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