死について思うこと

寝ることと死ぬことは似ている。

少なくとも主観的には似ていると思う。

朝、目が覚めて初めて寝ていたことに気づくか、そのまま目が覚めないか、それだけの違い。

寝ている間に死んだ人は、主観的には寝ていると思っていたかもしれないけど、実際には死んでいる。

科学が進歩した未来では、ベッドに自動の蘇生装置がついていて、寝ている間に急に心臓がとまった際に作動して、自分でも気づかないうちに生き返らせてくれているかもしれない。そうしたら、寝ていると思っている間に死んでいて、でも自分はただ寝ていただけだと思っているかもしれない。


いつも思うことがある。

いま考えている自分は、本当に自分なんだろうか?

例えば、寝ている間に誰かが自分を殺して、それまでにこっそり作っていた自分のクローンに今までの記憶をすべて移植して、それをベッドに寝かせたとしても、自分(というか自分のクローン)は、何も気づかずにいつもの朝を迎えるのだろう。

そしてそのまま気づかず、自分だと想って生きていくのだろう。

たぶん、家族も、周囲の人間も、そのクローン自身も、自分であることを微塵も疑わず、そのまま生きていくことになるはずだ。

オリジナルの自分は確かに死んでいるんだけど、世界は何も変わらずそのまま進んでいく。クローンの自分はオリジナルの自分と何も変わらない。オリジナルの自分とクローンの自分、明確に違うものはなんだろう。

アンパンマンはどこに脳があるのかわからないけど、あんの部分が脳である前提で話をすすめると、新しい顔に変わる瞬間に記憶が引き継がれて、汚れた古い顔の方は死を迎えるということになる。あの世界のみんなが、新しい顔になったアンパンマンがバイキンマンを倒して喜んでいる脇で、かつてアンパンマンであった古い顔は人知れず死んでいく。つまり、正確にいうとアンパンマンはひとりではなく、1000人目くらいだったりするわけだ。クローンの自分が生き続ける世界を主観的にみるとそういうことだ。

個人的には、オリジナルの死が個体の死だと思っているから、クローンがいようがいまいが関係ないと思うのだけど、その思っている自分すら、本当にオリジナルなのかと聞かれたら100%の自信はない。寝ている間は意識がないからわからない。記憶が改ざんされない前提の話だけど、記憶の連続性こそが自分がオリジナルである証明になるはずなのに、睡眠によって、記憶の連続性は保たれていないのだ。

そもそも、オリジナルの自分だって、古い細胞は死に、新しい細胞と少しずつ入れ替わっている。数ヶ月前の自分と今の自分を作っている細胞は全く別のものであるはずだ。これはオリジナルといってよいのか。自分を自分たらしめる基準はいったいどこにあるのだろう。考え出すときりがない。


寝ることと死ぬことは似ている。

寝るという行為は、あくまで観念的に、だけど、死を疑似体験しているようなものなのかなと思う。

寝ることは幸せ、死ぬことは恐怖だけど、そこに思ったほどの差はないのかもしれない。

いまのところ、生命は必ず死を迎えることになっている。いつか必ず死ぬのに毎日生きている。避けられない運命に向かって一歩ずつ歩いている。

渚カヲルは「生と死は当価値」と言った。その真意は本人にしかわからない。しかし、どう生きるかはどう死ぬかと同義だ、とは思う。

かならず来る「死」に対して、目をそらすのではなく、しっかり向き合うことで、できることなら穏やかな、幸せな死を迎えたいと思っている。

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