漂うコミュ障の私は斜めだけど真っすぐです
Vol.8【ワタシノ愛ノセカイ】
現実にて90%共感されたことないにもかかわらず、放さない私の持論がある。
『謝罪の多くは、自分の気持ちを楽にしたいだけ』
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あなたを傷つけたかもしれないと、悩んで傷ついた私のために謝罪を受け入れろ、というナチュラルな二次加害に私はしばしば遭遇する。
しかし私の場合、そもそも傷ついてすらいないので、器まで小さく見積もられる三次被害へ。
しかも謝罪を受け入れないと、こちらが悪人にされる四次被害もセット、となる私にとって謎めく謝罪の場面では、たいがい「ごめん」ではなく「ありがとう」で済む。
例:遅刻
✕「待たせてごめん」
〇「待ってくれてありがとう」
ちなみにここまでの経緯について、理由を話すのをメンドクサがるから共感されないともいうが、ナチュラル三次加害さんに話すと、メンドクサイ奴だと思われる率高く、五次被害へ。
とはいえ私は、これらの被害をいわゆる「被害」とは感じていないのだが、「なんで?」と質問されて私の感覚を話すと、嫌味認定されて、六次被害へ。
ところで、共感覚な10%さんはナチュラルに「ありがとう」をくれるので、話す必要がないどころか、ハッピーになれてありがたい。
私からすると必要のない、5つのステップを省けるうえ、その時間で別の対話をかわせるからだ。
なのでますます話すのをメンドクサがる私は、思考停止する自分に反省するが、いっこうに反省をいかさずに話さない。
なぜなら、「ありがとう」を「ごめん」にするたったひとつの行為によって、6段階もの手順を生むような謎場面が日常に溢れていて、私は次々に興味がとんでしまうから。
つどつど話していると、6段階ゆえにとんでもなく時間がかかるし、そもそも被害と感じていないので立ち止まる理由がない。
とはいえ少し立ち止まってみると、「傷つけたかも」の悩みが「自分がどう思われるか」ではなく「相手がどう思うのか」に尽きる。
私は気が緩むと盛大なコミュ障を発揮する。
おそらくだが、相手は「歩」の動きを期待しているのに、私が「桂馬」みたいに動くからだろう。しかも私は自分を「歩」だと思っているし。
コミュ障は真っすぐに歩けないのかも。
とはいえ桂馬らしき私は、大切な人の近くでは前後左右斜め前へと着実に動き、歪めた過去へは戻りません。
結局、裏を返せば「歩」と一緒。
人はみんな違うけど、根っこの愛は一緒だから。
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