白昼望遠鏡
歩き疲れた私の目が木製のベンチを認め、そこに休息を求めて腰を落ち着かせたことまでは、はっきりと記憶している。
だが今、腕が触れそうな距離ですぐ隣に座る少女は、私よりあとに現れたのだったかどうか、どうしても思い出せない。
どんなに茫洋としていても、私はその少女を美しいと感じていた。
肩の位置で緩く内巻きにされた髪の毛先は軽やかに揺れ、色は珍しい白銀である。そう、白銀。白いと云うには煌めきが強く、銀と表すほど尖った光ではないのだ。淡い紫色の古風なドレスは、白い襟と袖口に太陽を反射して眩しい。膝の上におかれた指先はいつか見たビスクドールのようにしなやかで、一瞬その指の関節部に球体が仕込まれている気がしたが、よく見ればそんなことはなかった。目が眩んだのか、縦長の爪は真珠のように虹色につやめいている。そのまま視線を足元まで向けた不躾を静かに咎めるかのように、長いスカートの裾から伸びていたのは靴ではなく、瑞々しい緑色をした植物の蔓であった。束になっており、そのさまはあたかも、少女ごと地面から生じたと云わんばかりである。思わず息を止めてしまってから、数度瞬いてみれば、最初から何事もなかったかのように、行儀よく揃えられた足先が、服と同色の靴に包まれてそこにあるだけであった。
吹き抜ける風に乗って、どこからかすみれの花の薫りが届く。
心地よさに目を細めたとき、周囲で風に揺れる木々のざわめきが、唐突に私に向けて喋りかけてきた気がした。
「白昼夢だと思う?」
それが幻聴ではなく、先程から隣に佇む少女から発せられた声だと我にかえるのに、数秒を要した。音のずれたフィルムのように、声のあとから少女のくちびるが動き、何度かひらいてとじる。
なにか返事をしようと思うのだが、声の出し方が全く分からない。押し黙る私の焦りに気付いているのか否か、少女はゆっくりと微笑んだ。睫毛の先まで白いのだなと呑気に感動することは出来るのに、話すことを忘れた喉は何の音も発しない。そもそも、私はどんな声をしていたのだったか。
「気にしなくていいの。それよりこれを見て」
手の中にコトリと置かれたのは、さほど長さのない黒い筒であった。
「そうよ、万華鏡なの。覗いてごらんなさい」
たった今まで何かに必死になっていたと思うのだが、それより渡された万華鏡にひどく興味をひかれて、何事かがどうでもよくなる。言われるままに筒の反対側を空に向けて、覗きこんだ。しかし、模様を認識するより先に少女の手が伸びてきて、光を遮るように、筒を手のひらで覆い隠されてしまう。暗闇しか見えなかったことに不満を覚えつつ、少女の方に顔を向ければ、小さな子どもをたしなめるように、ゆるく首を横に振られる。実際、座っている私の足はいつしか地面を離れ、つま先はどちらも宙に浮いていた。万華鏡が、とても大きく重く感じられる。
「いけないわ。望遠鏡で太陽を見ては駄目と言ったでしょう」
ぼうえんきょう、と心の中で繰り返してみて、今握りしめているものが、自分の腕ほども長い望遠鏡であったことに思い至った。危うく目を灼かれるところであったらしい。安堵の息を吐きつつ、もう一度、今度は前方に向けてから、そっと覗いてみる。木の葉か、運が良ければ野鳥でも見えるかもしれないと期待したのだが、やはり暗闇しか見えない。
「もっと目を凝らして、揺らさないように集中して見るのよ」
言われた通り、僅かな揺れをも抑え込もうと手に力を篭めた途端、カキリと何かが擦れる音を伴って、急に先端の角度が上がる。続いてようやく見えた光は、ぼやけてはいたが非常に大きな円形をしていた。
「すごいでしょう。ずっと天体望遠鏡に憧れていたものね」
凄い、と息を呑む。あまり前のめりになって、三脚を倒すことがないようにという意識だけは保ちつつ、視線はそのままに、私は夢中で頷いた。隣で小さく笑っているのが聞こえたが、それよりも夢にまで見た光景に、瞬きすらもどかしいほど見入ってしまう。
ぼやけてやたらと大きかった球体は、徐々に輪郭を確かなものに変え、その周囲を取り囲む光の粒は、いまや無数の星々であった。星のひとつひとつも、よく見れば色や形や大きさなど様々で、黒だと思っていた空間に遠近感が生まれる。一番小さく光る、遠くの星まであと少し。靄がかっているのは、遥か彼方の星雲だろうか。そこにはどんな光が。
「ふふ。そんなに一生懸命にならなくても大丈夫よ。プラネタリウムくらい、また連れてきてあげるから」
肩に手を乗せられたことに飛び上がるほど驚いてしまってから、恐る恐る少女の表情をうかがうと、眉を下げて困ったふうにしながらも、口元は笑っているのが分かり胸を撫で下ろす。
なんだか随分まともに息を吸っていなかった気がして、深呼吸をくりかえしつつ、ゆっくり顔を前に戻せば、頭上を覆うドームが満天の星空を映している。人工の星を眺めながら、かつてこれよりずっと深くて美しい銀河を見た気がしてならなかった。
ふいに寂しさが込み上げて、目を閉じる。
瞼を開いても見えはしないのだ。あの寒々とした漆黒が秘める無限の奥行きも、たったひとり取り残されたような行き着く果てのない寂寞感も。全身の細胞で感じる高揚も、ここには無い。
目を開けて現実を見るのが、こんなにも恐ろしかったことが今まであっただろうか。その先にある落胆や絶望、ほんの僅かな安心感と納得が、透けて見えるようで怖い。けれど、一生こうしているわけにもいかない。きっと私はすでに知っている。目を開けた時に何が見えて、何が失われるのかを。それが堪らなく淋しい。大丈夫よ、という少女の甘やかな声を期待しつつも、それがすでに隣にはなく、永遠に得られないことまで悟っているのが哀しい。
目尻からひと粒、涙が流れ落ちていく感覚に、重い瞼を開いた。雫が肌の上で冷えていく最後のぬくもりを味わいながら、手の中ですっかり汗ばんでいたシーツを手放す。私が今居るのはプラネタリウムでもなければ、ベンチでもなく、自室の寝具の中であった。ここには天体望遠鏡も、望遠鏡も、万華鏡すら無い。
もう聞こえない声を恋しく思いつつ、再び目を閉じた先に広がる真っ暗闇に、白い光は見つからないが、孤独だけは不思議と同じ手触りがした。
朝になったら私はきっと、すみれの花を買いにいくだろう。