見出し画像

耳に注目してみた ~私は要約筆記者になれるのか ①~

2021年10月、私は《要約筆記者養成講座》 の受講を始めた。
これから1年間の学びと試験への道が続く。
《要約筆記者》 という言葉を初めて知ったのは、鳥取県のニュースで取り上げられた今年の夏。
聴覚障害者への文字情報提供をする役割だと言う。
今までボランティアなどに積極的だったわけでもなく、愛に溢れた優しい人間ということでもないが、これなら自分にもできるかもしれない…
そう思ったが、その時は私が住む島根県での情報にまでたどり着くことはできなかった。

それから2ヶ月ぐらい経っただろうか。
忘れかけた頃に、近くの公民館で偶然養成講座のチラシを見つけた。
手に取ってみると、締め切りは翌日。
何となくこれは申し込まなくてはいけないのではないかという気がして、迷う間もなく、帰ってすぐに書類を郵送した。

1ヶ月後に講座が始まった。
要約筆記の方法には《手書き》と《パソコン》がある。
その違いを詳しく知ることもなく受講を決めた私は、どちらのコースも取ることにしていた。
人が言っていることを書いたり、パソコンで入力したりする事で人の役に立つのだろう……
ただそう簡単に考えていた私は、その難しさを初日から思い知らされることとなった。

講座の始まりは、まず耳が聞こえない世界を知ることから。
耳の構造、音を聞く仕組み、障害のある場所による難聴の種類の違い、耳が聞こえないことで起こる心理的作用…… など。
それを直接聴覚障害者さんから話を聞く。
そう、自身が難聴である講師の方は、耳が聞こえていないのに2時間の講座ができるのだ。
部分的に聞き取りにくい音があるが、それが難聴のために本人が聞き取りが難しい音らしい。
そこをカバーするように、スクリーンに映し出された文字が動く。
受講者自身が要約筆記の恩恵に預からなければ、講義内容を追いかけることができない。
生まれた時からの難聴だと、聞こえない音を発するために、どれだけの読語と発声練習を繰り返したのだろうか……?
講座の内容はもとより、私の頭の中は聞こえない世界の想像でいっぱいになった。

午前と午後の2時間ずつ、初日の講座を聞き、家にたどり着いた私は、そのままベッドに倒れこんだ。
驚くほどに耳と脳が疲労していたのだ。
そして次の日にはひどい頭痛と肩こり、おまけにギックリ腰まで引き起こしてしまった。
知らないうちにいつもと違う刺激を受け、神経が高ぶり、体が固まっていたのだろう。
聞き取りづらい話を一生懸命聞こうとする。
この聴覚障害者が日常に求められている習慣に、1回で私はすっかり打ちのめされていた。
主催側とすれば大成功の体験なのだろうが……

それからの私は、今まで以上に『聞くこと』に注意が向くようになっていった。
私自身、耳には少し難がある。
子供の頃から音には敏感で、部屋の中で響く足音などは辛い。
壁を伝うモーター音や食器の接触音、周囲の会話などが気になって、集中できないこともあった。
自分や他人のたてる生活音が何も気にならない人のことが理解できない。
そしてこんなにうるさいのに、何故無神経に音をたて続けることができるのか……?
嫌でも耳に入ってくる雑音に、私はいつも悩まされていた。

「私の耳は聞こえすぎている」と、若い頃に聴覚検査をしてもらったこともある。
しかし逆に「聞こえていない音の高さがある」と言われて驚いた。
確かにそれまでの私は常に「聞こえる」を基準に聞いていた。
「聞こえない」を基準にして聞いてみると、声の質や高さ、音量、話し方によっては聞き取りにくく、どうしようもなく苦手な声の人もいると分かった。

その上2年前に事故にあってからは耳鳴りもひどく、今では24時間、3種類の音が耳の中で鳴り響いている。
治療のために、補聴器型のものを着用して、常にホワイトノイズを流すことで耳鳴りの音を感じなくするということも試してみたが、いつしかそのホワイトノイズに脳が拒否反応を示すようになり、使用を止めた。

困ったことに私の耳は塞ぐことができない。
嫌でも様々な音を拾う。
そしてずっと入り続ける様々な形の音刺激に、脳はいつしか疲労していく。
これは補聴器が聞きたい音だけではなく、雑音まで拾ってしまって、必要な情報の方が聞き取れないことと似ているのだろうか……?

それでも私にはこの耳しかないので、その中で自分なりの妥協点を探し、それなりの折り合いをつけてきた。
そんな私でも、難聴については何も理解していなかった。
私が難聴者の気持ちが「分かる」のか「分からない」のかと言えば、やはり「分からない」に入るだろう。
でも自分が健聴者かと聞かれれば、そう言い切る自信もないかもしれない。
音を聞くことはできるし、日常会話や情報、講義や会議の内容もその場で理解できる。
だけど私の耳の状態は、決して健やかではない。
日本の聴覚障害者としての認定基準は、WHOと比べても特に厳しいらしい。
生活で不自由さを感じているのに難聴者と認定されない人がたくさんいるという。
本当は聞こえていないのに、それを周囲が認めてくれなければ、自分がそこに拘ることが悪いような気になってくるではないか。
『聞こえる』と『快適に聞こえる』は違う。
そしてそれ以上に『正しく理解する』は違っている。
そのことは私も既に感じ、もがいていたのかもしれない。
耳に注目することで、私の中で何かが動き出した気がしてきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?