見出し画像

The Sound of Silence

 こうなることは、どこかでわかっていた。そうは言っても、脳で理解するのと実際に目にするのとでは、わけが違う。布団の裾からはみ出たベージュピンクのネイルが、数時間経った今でも脳裏にこびりついている。あんな控えめな色を足に塗るなんて、どうかしている。よりによって、いつかのあの人と同じ色味。「接客業だから清潔感が大事なのよ」と、私に見せつけたあの疎ましい色。あいつの趣味もここまで来たのか、馬鹿野郎。「来ちゃった」と、安易に彼氏の家に行くものではない。でもさ、私の家でもあったのにな。少し奮発して買った羽毛布団。いつから私は、知らない女とシェアしていたのだろう。

 “事故現場”からどうやって実家までたどり着いたのかは、あまり覚えていない。真昼間にインターホンを鳴らした私を、平然そうに迎え入れた父の顔を見るまで、きれいに記憶は飛んでいるのだ。玄関のドアを開け、一瞬、父は眉を上げた。しかし、彼はすぐに「普通ですよ」という顔を作ったのだ。その様を思い出せば少しは笑えた。

 こうして今、私はかつての自分の部屋の床で見事な大の字を描き、天井を見つめているわけだ。右の太ももに固いものがあたり、コートのポケットにスマホが入っていたことに気づいた。ポケットから取り出し画面を見ると、60件の着信と数件のメッセージ。なにびびってんだよ、もっとかけて来いよ。絶対出ないけど。

 私は、スマホを右手から開放し、再び両手を広げて天井の一点を見つめた。ブラインドから漏れた光がさわやかな模様を描いている。のどかだなあ。こんないいところだって、住んでいるときは気づきもしなかった。少し開いた窓の隙間から、雪のにおいがする。大量に積もった雪の表面が、太陽の光で溶けているのだろう。少し生臭いが、春の雨とはまた違う、クセになるにおい。そう、卒業式のにおいだ。
「昼、食べたのか」
目線だけを天井から声のするほうに移すと、中途半端に開いたドアの向こうから、父がこちらをのぞき込んでいた。
「まだ。でもまだいいや」
不器用な父が用意できる昼食なんて、インスタントラーメンと決まっている。自分好みで作るから、きちんと茹でたのか疑いたくなるほどに麺が硬い。それが小さい頃から苦手だったが、妻に休日の昼食ですら作ってもらえない父が不憫で何も言えなかった。

 父の視線が私の足元にあることに気づき、私はスピーカーにぶつかる左足のつま先をさりげなくずらした。大きな2つのスピーカーの間にはカセットオーディオが、その上にはレコードプレーヤーが置いてある。左側のスピーカーの横にはガラス張りの棚があり、20枚ほどのレコードがきれいに収納されていた。
「これさ、まだあったんだね」
私が生まれる前、この部屋は父の書斎だったらしい。その頃からこの巨大なセットはこの場所にあったという。実家に住んでいた頃、カセットオーディオについたラジオはよく使っていたが、その上の機械には一度も触ることがなかった。
「使えるのこれ」
「わからない」
「使ってみていいかな」
「いいけど」
父がフッと笑い、右手で鼻をかく。
「どうやって使うの」
「置くだけだよ」
「だけって。やってよ。壊したら困るし」
「壊れたらその時だろ」
面倒臭いのか、照れ臭いのか。こだわりがあるのか、モノに執着がないのか。20年以上彼の娘として生きてきたが、その心理はいまだによくわからない。
「どれ聴くのよ」
父はしゃがみ込むと、おもむろにコンセントをさした。私は体を起こし、棚に目をやった。ビートルズでも、ローリングストーンズでもない、何者かの名前がきれいに並んでいる。「&」とあるから、2人組なのだろう。ぱっとわかるものがなかったから、私は取りやすそうな1枚を引っ張り出し、父に渡した。父は手際よく、そして丁寧にレコードをセットすると、静かに部屋を出て階段を下りてしまった。

 ザーッという音の中から、小雨のようなギターの音色が聞こえてくる。私はまた床に寝ころび、目を閉じた。少しずつ力強くなっていくギターの音と優しい歌声が、暗闇で流れる。そのまま静かに、まるで晴れることのない曇り空のように、1曲目は終わってしまった。

 それから何曲聴いたのだろう。レコードから流れる音楽が、生ぬるい外のにおいと混ざりあって心地よかった。意識的に何度か深い呼吸をしていると、空気のにおいが変わった気がした。そのとき、ずっしりと階段を上ってくる足音がした。
「ラーメン、食うか」
「食べる」
要件だけ伝え、静かに来た道を戻っていく父の後をついて、私は階段を下り、リビングのテーブルに父と向かい合うように座った。
「いただきます」
目の前に置かれた醤油味のインスタントラーメンは、くったくたに煮込まれていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?