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今度生まれたら

『今度生まれたら』あらすじ

70歳になった佐川夏江は、夫の寝顔を見ながらつぶやいた。結婚至上主義時代に生きてきた夏江が、将来をかけて勝ち取った相手だ。夫は退職後、趣味を楽しみ、息子2人も独立した。何の不満もない老後だといえる。だが、自分の人生を振り返ると、節目々々で下してきた選択は本当にこれでよかったのか。進学は、仕事は、結婚は。あの時、確かに別の道もあった。やり直しのきかない年齢になって、夏江はそれでもやりたいことを始めようとする。

『今度生まれたら』内館牧子著

『今度生まれたら』(内館牧子著)。
『終わった人』『すぐ死ぬんだから』に続く、「高齢者小説」とのこと。私は30代なので、まだまだ高齢者という年齢を身近に感じていないが、以前『終わった人』を読んで面白かった記憶があり、こちらも手にとってみた。
※下記、多少のネタバレがあります。

「今度生まれたら」と思う人生

みなさん、「今度生まれたら」と考えたことがあるだろうか。
「今度生まれたら、サッカー選手になってワールドカップに出たい!!」
「今後生まれたら、宇宙飛行士になってみんなに自慢したい!!」
こんな無邪気な思いで口にするとしたら、微笑ましいですよね。
ところがところが、こちらの本の主人公は…なんだかいけ好かない。
途中に夫絡みのトラブルがあったとしても、順風満帆なのだ。どう見ても。
自分が突き進んだ道を力づくで手に入れた勝者、といった印象だった。
最初の方で私は、全く感情移入できないまま読み進めていた。

時代による価値観の違い

もちろん、時代背景についても本の中でも触れており、その価値観は令和の現代とは180度異なるものだろう。
そこに関しては同情の気持ちもある。
作中で70代になっても現役バリバリで働く女性として登場する女性がこう言う。

時代の風潮に合わせすぎるな、と言うことですね。その時代の価値観と言ってもいいですが、それはすぐに変わるんです。

『今度生まれたら』内館牧子著

この箇所を読んで、私の中にもちくりとするものがあった。
私は現在専業主婦であるが、現代では子どもがいても共働きが当たり前。
そのことに常に引け目を感じている私がいた。
役所の人、かかりつけの小児科の先生、産後ケア事業・子育て支援センターのスタッフさん。
皆が皆、職場復帰する前提で話をしてくる。
(…ように聞こえるだけかもしれないが。私自身が引け目を感じているため。)
はたまた、専業主婦で3人の子育てを終えた義母の前では「私も働きたい」と言う気持ちは隠しておいたほうがいいのか?義母世代の価値観では専業主婦が正解だよな?と考えてしまう自分。
そう、価値観の流行といったらいいのだろうか。
流行りなのだ。「こっちが正解」と言う無言の圧力。
それに飲み込まれ過ぎなくてもいいのだ。
時代・周りは置いておいて、「私はどう思うか」考えて考えて考えて、思った方向に進めば良い。
それを前述のバリキャリ女性は教えてくれた。
そうか、主人公ががむしゃらに突き進んでいったのでは、「自分で選んだ」道ではなく「時代の正解に選ばされた」道だったのだ。
一見、積極的に見えた主人公の人生は、受け身の人生だったのだ。
「自分はどうしたい?」と自分に問いかけることを(70)歳になるまでしてこなかった後悔なのだ。
私自身の現在の心境と重ね合わせてみることで、共感…と言うよりは同情だろうか、そんな気持ちになった。

老後は趣味しかないのか?

主人公は憤る。

世間は、「いいから趣味をやらせとけ。趣味がないヤツには持たせろ」

『今度生まれたら』内館牧子著

本音では「誰も彼もハンでおしたような常套句ぬかして、聞きあきたわい」である。

『今度生まれたら』内館牧子著

なんて辛辣な物言い…。いや、痛快というべきか。
30代の私でも気持ちは、わかる。
「趣味趣味趣味趣味趣味、うるさいよ。趣味ってこんなにせき立てられてやるもん?やりたい人だけ、夢中になれる人だけ、やってください。」と思うときは確かにある。
私には、好きだなと思うことはあれど人に胸を張って趣味と言えるものはない。
寝食を忘れて夢中になるほどのものはない、って感じかもしれない。
主人公には園芸がある。
私はむしろ主人公が羨ましかった。

つべこべと高齢者の余暇の過ごし方について管を巻いていた主人公だったが、姉夫婦・息子夫婦・独身息子のそれぞれの騒動を通して自分の今後の人生、また夫との夫婦関係に向き合っていく。
結局、一言で言ってしまえば、聞き飽きたと言っていた「趣味でボランティアを」ということになるのだけれど、そう思えるようになるまでの過程が大事なのだろう。
本の最後の方、主人公はさっぱりとしていて読後感も良い。

誰かのために何かをするということ

結局のところ、人は誰かに何かを与えたい生き物なのかもしれない。
だから私も、育児に追われる日々の中に何かぽっかりとしたものを感じることがあるのだ。
「家事育児には目に見えるやりがいも報酬もない」「育児は母だからやって当たり前」「社会との繋がりが希薄で孤独」
言葉にしてしまうと、やけに陳腐だが、つまりそういうことなんだろうなと思う。子どもはもちろん可愛いし、日に日に成長する姿を毎日1番近くで見られて幸せだ。
そうさせてくれる夫にも感謝しているし、自分で選んだ道ではある。
だんだんとブランクが長くなり、社会に出るのが怖い気持ちも日々強くなっている。
しかし、「社会に何か与える。貢献する。」
それが私はしたいのだと思う。
そう、「人は」「誰かに何かを与えたい生き物」なのではなく、「私は」そうしたい人なのだ。
一般論で括らず、「私は」と言えるようになろう。

今度生まれても

「今度生まれても、私になりたい!夫と結婚したい!今の仕事をしたい!同じ人生を歩みたい!」
そう言えるように、日々の選択を積み上げていきたい。
そのために「私は」どうしたいか、怠けることなく都度考えていこう。


「高齢者」小説と謳われているが、老若男女が読んでも面白く、自分と重ねて振り返ることができる小説でした。


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