らしさ

とりあえず好きなバンドの曲名をお借りした

noteを書き始めた19年末
まだ周りに使う人は少なく、重めの内容でもクローズドな分書きやすいこのツールは嬉しい発見だった
20年になりコロナ禍も手伝ってnoteを利用する人が増えていった気がする

爽やかな文
綺麗な写真
有益な情報商材

どんどん増えていった

始めた2012年は
○○なう、腹減った
くらいの個人のつぶやきを平和に眺めて
重いことも含めて気楽につぶやけたツールが

積み上げ
なんで行動しないの?
フォロワー何人!
引用RTで燃やす

みたいな他人を巻き込むツールに変わってつぶやきにくくなったTwitterを感じさせた

別にTwitterにしろnoteにしろ他人は気にせず自分の自由に言葉を並べていけばいい

でも自分の目に映るのは
酸素に満ちた澄んだ真赤の他人の文章と
二酸化炭素で赤黒くよどんだ自分の文章

そのコントラストに耐え難い悲哀があった

ただただ普通の文章を書きたかった
中学生の頃にいくつかの作文のコンペで学校代表になったり市で賞をいただいて
「文才あるよね」
「小説家になれるよ」
と沢山の人にほめられた

私もその気になって
小説を書くかライターの仕事をしたいと思うようになった


文章にその人の生き様が現れる

もしそう仮定できるのであれば、私はそれにずっと縛られ呪われている気がする

もの書きに憧れを抱いた当時の文は
汚れのない実に素直な文だった

ここから高校大学と実に7年間にわたり
人格否定、脅迫文などの実害、絡みあるなしに関わらずネガキャンが回り嘲笑され後ろ指さされる日々
“こんなん”のが続く
果てにはメンタルが壊れて就職すらできない

まさか当時はそんな未来が続くとは思ってなかったし想像できるわけない

もうあのような瑞々しい文は二度と書けない


今の私の口から出る言葉のほとんどは
俗に言う“ネガティヴ”な性質らしく
ネガティヴな言葉を主に吐く人は
俗に言う“病んでる”状態らしい
そんな“病人”の書く文章を
誰が読みたいのか
そこに価値はあるのか
その言葉は人の気を害するのか

言葉をSNSという不特定多数の人の目に入るプラットフォームに軽率に流していく意義が見出せずここ数ヶ月自分の心の中を塞ぎ込むようになった

「なんでこんな上手く生きられないんだろう」
毎日声に出して吐き出したい日本語である


昨年ニート状態で偶然出会った同世代の管理栄養士と運営している、管理栄養士を目指す学生のオンラインスクールが1周年を迎えた

数ヶ月限定の予定で20名ほどからスタートしたものが気づいたら120名を超え、社会人コースまで始まっている

私は主宰よりも弁が立つことから「おしゃべり」要員で運営に誘われた
主にファシリテーターや精神年齢が低く学生と打ち解けるのが得意なこともあり、学生同士、学生スタッフ間のコミュニケーションを円滑にする役割を担っている

ただ、運営3人のうち主宰はフォトグラファーで、もう1人は国試対策のインフルエンサーという反面、私には何も明るいものが無かった

私以外のスタッフだって話すのも学生とのコミュニケーションも決して下手ではない、むしろ全然回せる
自分の存在価値って、自分が学生にしてあげれることって何なんだろうと規模が大きくなるにつれて悩むようになった

そこで5月からメンバー1人ひとりと個人的に話す機会を設けることにした
現在80人ほどのメンバーと話せて、いずれ全員と話せたらと思っている
だいたい平均2,3時間
長い子で6時間越えもあった
その中で
「今まで誰にも言えなくて初めて言えた」
「めったに心の開けないのに心開けた」
「あなたのような人に出会えてよかった」
という言葉を何度もいただいた
中には私の言葉で泣いてくれる人もいた

長いこと自分の存在が、声が届かない世界で生きてきたにもかかわらす
どうしてこの1年で届くようになったのか

自分が一番困惑している

ただ、一つ考えられるとしたら
あらゆる悩みに対して当事者として共感できるからではないかと思う
容姿、性格、心身の病、人間関係、親子関係、犯罪、いじめ、体罰、進路、セクシャリティ
挙げたらきりがないくらい目の前に立ちはだかる
死物狂いで乗り越えた先にはまた新しく

“何でも聞くよ”
そんな甘い言葉に誘われて心を削りながら吐き出したのに
テキスト通りの同調や傾聴で流されて、言葉の重みを受け取ってもらえない絶望
ただその人が人の悩みを聞いてあげている自分に酔いしれている姿を見せつけられるだけの絶望
幾度も経験してきた
私がそうならなかったのはそれぞれが勇気を出して吐露してくれた悩みを実際に経験してるから心からその痛みがわかるからなのであろう

「これがあってよかった」
なんて美化できない到底許しがたい経験が
今の自分の存在価値を形成している
とんだ皮肉である

そして受け入れ難い現実を無理矢理にでも腑に落とすには
“とにかく生き続ける”
これしかないことも知った

人生で最も美しく輝くであろう学生時代を失ったことへの喪失感や劣等感は生きていくにつれ割り切れるどころか増していく

人生を諦めるポイントはいくつでもあった
どうせなら何もかも失っての方が割り切れたのかもしれない
それでも現実として今、私を必要としてくれる人や場所がある
それらがある限り生き続けなければいけない気がした

人生設計をして将来のためにいつまでに目標達成するみたいな生き方はとうの昔に終わった
今はただ明日の予定のために生きる
いや、何とか生きながらえる感覚である
これは人生の活動期なのか余生なのか
後者な気がする

誰よりも孤独を恐れて
必要とされるように片っ端から手を出した多岐にわたるスキルが、今自分の存在価値として人から必要とされる理由の一片となり私の生きるモチベーションとなっている

もがき続けて動き続けてやっとこさゼロ地点に這い上がった今
周りに怖いくらい恵まれている
まだまだ追い込んであがきつづけるべきか
それとも少し休憩することを許してもらえるのか
日々迷いは消えない

過去の傷も自身への嫌悪感も消えることはない
それでも生きている実感は今が一番ある

誰が為に生きてたかわからない今までと
誰かのために生きようと決めたこれから

言葉の綾にも聞こえなくないが
性質は今の方が極めてポジティブな気がする

2500文字の壮大な自分語り
その最期に気づくこと
私とは対極にある言葉が初めて自然に出てきた


確実に何かが変わった音がした

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