ヴィーガンとマイノリティ

生きづらい

何度感じただろうか
しかも生きる年数が増えるほど
比例して頻度も高まるから厄介だ

小さい頃は周りなんて気にしなかった
小学校でいじめられてからは
周りから浮かないことだけを念頭に生きた
周りと同質にならなければ目をつけられる

声をあげたくても
周りが声をあげなければ黙るし
特に意見がなくても
周りが発言すれば自分もしなきゃと焦るようになった

いつしか自分のやりたい、言いたいを叶える喜びよりも
みんなと同じであることの安心感が大切になった

自分の心から湧き出る欲求は不随意的で
どれだけ大多数の思考に沿う言動を行なってきてもそれとは異なることもある
違和感を感じつつもそれらを全て
「協調性」
という便利なパッケージに詰め込んで無理矢理自身の心を殺すことを正当化してきた

こう振り返ってみると
生きづらさとは違和感で
違和感とは自分の気持ちを抑え込むとこで
抑え込むのは自分が少数派だから

この年々その勢力を増して襲ってくる生きづらさと対峙し解消に向かわすためには
少数派であることの捉え方を変えなければならない

そもそも大前提として少数派であることが悪いことではないのを忘れてはいけない
ある事象において2つの対極にあるものがあったとしても、それが同質であれば優劣はつかないのではないか

と、いくら頭で理解していても
多数派いる人の地位や役職、キャラクター
今後の人間関係や物事の流れが滞る可能性
様々な要素を鑑みると、相当強いメンタルを持っていなければ少数派の意見を声を大にしてはなかなか言えないのも現実である

となると湯葉メンタルの自分が取れる策は1つしかない
「少数派にならない」ことである

これは少数派の意見自体を否定するものではない
多数派の意見を無理矢理刷り込ませるものでもない
自分と同じ考えを持つ人が多くいる場に身を移すことである

私は大学を2度卒業している
最初に入ったのは体育大で
男であるからには酒の強さやノリの良さ、大人数の場での会話力が人間関係を上手く築くに必須の条件だった
ただそれらが苦手だった私はこれでもかというほど上手くいかず、まともに人間関係を築けない自分を否定し絶望し続けた4年間だった

結局、学生ですらボロボロだったのに更に厳しい社会で人間関係を築いていくことが怖すぎて、メンタルも限界で心が折れて就職を諦めた

そこで紆余曲折あって2度目の大学進学に至る
すると、価値の無い人間の失敗作だと本気で思っていた自分が怖いくらい評価されるようになる
というのも、進学したのは管理栄養士の養成校で男女比が1:9の女性社会だったことが大きい

ここではノリやお酒の強さなどは最優先事項ではなく、落ち着きや安心感、気遣いや思いやりといった接しやすさが評価されていた
自分自身が沢山生きづらさを感じて生きてきたからこそ、他者に対してはかなり思いやることができていたのだと思う
あれだけ怖がっていた人間関係も本当に沢山の人と楽しく過ごすことができ、生きる希望をもらえた4年間になった

私は家族やいとこ、近所の友達が女性ばかりで小さい頃から女の子が多く好むような遊びをしてきた
そのせいか共通の趣味を楽しめるのも自然と女性になり、ものの好みや感じ方思考も女性と合うことが多くかなり女性気質が高いと思われる

だからこそ比較的男性が好む振る舞いを求められる体育大では女性気質の私は少数派のタイプで上手くハマることができず
逆に女性社会だった栄養大では多数派のタイプで上手くいったのかなと今になって思う

自分自身はそこまで大きく変わっていなくても
環境を変えることで堂々と生きれる
これを8年間の大学生活で学んだ気がした


さて、ここまでは壮大な自分語りによる前振りである
どこに需要があるか大変恐縮な駄文であったが、この考えがあって感じた最近の出来事について書き記していきたい

2020年に大学を卒業しオリンピックに携わるために就職を蹴って準備していた矢先
例のウイルスの流行で大会が1年延期になりいきなりのニートとなった
そこで奇跡的な人のご縁に導かれ、一言に形容し難い様々なお仕事をさせていただいているのだが
その中でヴィーガンやベジタリアンにまつわる大きなイベントのお仕事に携わることになった

職業柄知ってはいたが、私のようなジャンキー食品でやけ食いをしてしまう人間の食生活なんて不快感を与えるのでは無いかと気を張っている部分が初めて関わる時にあった
ただその緊張は杞憂に終わるほど、温かくて優しい人柄や空間がそこには溢れていた

ヴィーガンやベジタリアン
もちろんそれだけでなく食物アレルギーや宗教上の理由で制限がある方々も挙げたら枚挙にいとまがないが
何の“制限”もなく好きなものを食べれる人と比べたら少数派なのかもしれない
だからこそ、理解されにくい苦しさや生きづらさを感じる場面もあったと思うし
その経験があったからこそ多数だろうが少数だろうが人の考え方や在り方の多様性には人一倍心広く寛容なのだと思う

そして深く関わっていく中で改められた考えが
少なくとも私の周りのヴィーガンやベジタリアンの方はその食生活を
“制限”されてるのではなく
前向きに“選択”しているということだ

自分が守りたいものや在り方があるから
そこに苦はなくて楽しく食生活を送っている
つまり私のような多数派とされる食生活の人間と同質であってそこに優劣はない
人間で言う性別や血液型くらいの違いなのではないか

イベントが終わった後の食事会で
これだけ運営に人が集まってくれる理由を考える場面があった
あくまでも個人の意見だけど、私は割とすぐパッと理由が出てきた

生きているとなんだかんだ少数派は色眼鏡で見られたり、理解されにくかったりする
理解してもらえる土壌があったとしても、そうなるまで伝えるにはかなりの気力や体力が必要で、先に心が折れてしまう人も少なくはないと思う
なんだかんだ言ってまだまだ自分が少数派であることに心細さを感じる瞬間は日常に溢れているのではないか

そんな日常の中で
この人が好きで
この商品が好きで
こんなことが嬉しくて
と想いに共感してくれる人達が大勢いて
自分の好きなものを同じように愛する人が見渡す限り集まる場
それがあるだけでも素敵な空間なのに
その場を創り上げる一員になれる
その意義はとてつもなく尊く深い

本当に素敵なイベントで
素敵なコミュニティだと思う

だから人が集まるのだと勝手に自論で腑に落ちた自分がいた

私はヴィーガンでもベジタリアンでもないけれど
その場づくりに携われていることを光栄に感じている
今後も必要とされる限り力になれるよう携わっていきたい

ここに繋いでくれた方
何者でもない私を必要としてくれた
仲間として受け入れてくれた全ての方に感謝の念が絶えない

ありがとうございます
これからもよろしくお願いします


最後に蛇足ではあるが自分語りをもう一つだけ

私は飲みの場や人が多く集まる場で
上手く話に入れず端っこで1人スマホいじる陰タイプの人間で
「なんか喋れよ」「しゃべらないからつまんない」
と今まで言われすぎて大勢の場にいると
「何か話さなきゃ」と強迫観念に襲われる
だから意図的にそのような場は避けている

今回の場でも緊張して参加して
ふともっと話さなきゃいけないと一瞬焦ったけど
誰も気にするそぶりもなく優しく話題に混ぜてくれて安心していられた

大人しい自分でも大勢の場にリラックスしてもいいんだとありのままの自分を肯定された気がしてとても居心地が良かった

ずっと生きづらさを感じて生きてきた
新しい居場所と出逢えた気がした

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?