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【全作読破第2回】『百鬼園随筆』をよむ。

 みなさん内田百閒はお好きですか。私は大好きです(しってる)
 前回から間が空きましたが、内田百閒全作読破第二回、始めます。

企画趣旨はこちらからどうぞ。

 前回の記事はこちら。

第2回は『百鬼園随筆』です。

 1933(昭和8)年、三笠書房刊。内田百"間"は45歳。
 前回お話しした通り、鬱屈した生活から逃れるため、短い小説をまとめて世に出した創作集『冥途』(1922(大正11)年)は評判も上がらず、しかも翌年の関東大震災で印刷のための紙型が焼けてしまいます。
 『冥途』は芥川龍之介が世に紹介してなんとか広めようとしますが、その芥川も自死。そうして処女作『冥途』が世に黙殺されたまま11年が経ったところで、いきなり大ヒットして内田百間の名を世に知らしめたのが、この『百鬼園随筆』です。

 しょ、昭和になっとる……。と、この年譜の流れでいつも思ってしまいます。私は漱石門下としての百閒先生から入ったクチなので、どうしても大正時代の作家のように考えがちなのですが、実際のところは「昭和文学」のカテゴリーに入るんですよね(たぶん)。
 私はもともと明治大正の近代日本文学がメインジャンルなので、文学年表を見ると、『百鬼園随筆』が出るまでに知っている有名作品はあらかた出揃っていて、ここから先の「同時代先品」はまた別ジャンルだな~読んでこなかった作家が多いな~、と思います。同時代の空気を知るためにも、これからぼちぼち手を付けたいですね。

 さて。内田百閒の第一作は『冥途』ですが、売れっ子作家としての人生は『百鬼園随筆』から始まります。
 それというのも当時は気楽な読み物としての「随筆」に需要が高まっていた頃らしく、同門の寺田寅彦の随筆も、百閒より先に評判を高めていました(『冬彦集』『藪柑子集』刊行が1923(大正12)年)。

 世の需要が十分にあったところに、面白い本が現れる。そのうえ『百鬼園随筆』発売の翌月、朝日新聞の文芸欄で室生犀星が絶賛します。それでブーストがかかったらしく、今で言うならフォロワー数十万の有名人の紹介がバズるがごとく、『百鬼園随筆』は増刷につぐ増刷で、百閒先生本人もどれだけ刷ったかわからないほどだったようです(旺文社文庫版解説より)。

 しかしまあ、売れ出した時点で45歳なんですよ。
 長年の教師生活から一転、売れっ子作家へ。似たようなルートを辿っている師匠の漱石だったらあと4年で死んでる(享年49歳)わけですが、百閒先生は81歳の老衰で大往生されているので人生はあと36年あるしこのあと47冊出しています(編纂本を入れるともっと多い)。こっからが長いわけですね。

 ということは私もこれからあと47冊読んでは記事を書くことになるわけですが、続けば御の字のゆる企画なので、あまり深く考えないようにして進めていきます。

「初めの一冊」にふさわしいか否か。

 内田百閒を読め読めオタクなので、日頃から事あるごとに百閒本を人に勧めたり、人の欲しいものリストから送ったり、リスト作ってなくても住所知ってたらAmazonで送り付けたりしている(※事前承諾は取っています)わけですが、『百鬼園随筆』は内田百閒を読む初めの一冊としてお勧めすることが多いです。代表作であり出世作、それに新潮文庫版なら今でも書店に置いてあることが多いですからね(令和にも増刷されています)。

 しかし改めて考えると、『百鬼園随筆』て、内田百閒最初の一冊に向いてますかね……? と思わなくもない。

 百閒先生は随筆内では自身のキャラクターを作るタイプだと思うのですが、『百鬼園随筆』掲載作品では、まだキャラが固まっていない印象を受けます。そもそも一冊の本として出版するために書いた作品ではなく、教師生活をしていたうちの十年ほどの間に書き溜めたものをまとめているので、掲載媒体も違えば作風も違う。やわらかめの一人称で書かれたものもあれば、漢文調の小難しい言い回しを使ってお茶らけてみたものや、そもそも随筆ではない小説も混じっている。よく言えばバラエティー豊か、悪く言えばまとまりに欠ける一冊なのです。

 今回改めて『百鬼園随筆』を頭から読み始めて、いやぁ……これは最初の一冊には向かなかったかもな……と、これまでお勧めしてきたことをちょっと反省したりもしましたが、読み終わる頃には、「やっぱ最初の一冊に丁度いいわ」と、再び考えを新たにしました。

 なぜなら、『百鬼園随筆』には既に”内田百閒の随筆”のすべての要素が出そろっていると思うからです。

 お馴染みの”錬金術”こと借金哲学。高利貸しとの対決。大好きで三十羽以上飼っていた小鳥。漱石先生の話。宮城道雄との交流。飛行機に汽車、ふるさと岡山の話……と、この先36年語り続ける百閒随筆の大事な要素は、『百鬼園随筆』の中にすべて収められています。
 無いのは猫の話くらいでしょうか(百閒先生はノラを飼うまで猫にはあまり興味がないので)。

 そのため、「とりあえずこの本読んで!」と勧めるには丁度いいと思います(鉄道好きには『阿房列車』、猫好きには『ノラや』などの個別に狙う場合はまた別)。

 ただ、収録作品を順に読んでも時系列もばらばらだし、著者のバックグラウンドの説明も系統立ってはされないので、何も知らずに読むとよくわからない部分もあるかな……という気はします。まあ細かいことはわからなくても面白いんですが。私も初めはなんもわからないいままキャッキャ楽しんで読んだ記憶がありますし。

 でもなんか読みづらい……これってどういうこと? とつまづいた方もいるでしょう。そんな方たちのちょっとした手助けになれたらと思いつつ、以下、三つの章分けごとにざっくり説明&感想を書いていきます。


【短章二十二篇】その後の百閒随筆の形が固まってきた作品

 琥珀/見送り/虎列刺/一等車/晩餐会/風の神/髭/浸水式/羽化登仙/遠洋漁業/居睡/風呂敷包/清潭先生の飛行/老狐会/飛行場漫筆/飛行場漫録/嚔/手套/百鬼園先生幻想録/梟林漫筆/阿呆の鳥飼/明石の漱石先生

  この章に収められているのは、一部を除いてほとんどが本の刊行と同じ1933(昭和8)年か、その前数年に書かれた短めの随筆です。つまり冒頭にあるものの、発表年としては一番新しいパートですね。
 既に今後の「百閒随筆」の形が整った作が多く、掲載媒体は様々ですが、だいぶ方針が「固まってきた」感じがします。
 
 ただ、「明石の漱石先生」は1929年の漱石全集附録月報第16号に掲載されたもので、本文がですます調だったりと、雰囲気が少し違っています。

 掲載の初出が何だったのかを踏まえて読むと面白い話は「老狐会」。百閒先生が当時勤めていた法政大学での話で、なんだか説明もなく同僚の先生の名前が出てくるな~と思ったら、「法政大学新聞」掲載なのですね。発行の学生に頼まれて書いた原稿か、だからちょっと内輪ネタなんだな……と理解するとまた面白い。

 他、「飛行場漫筆」佐藤春夫の雑誌「古東多万」に寄稿されたもの。本文冒頭でも雑誌に少し触れていますね。発表は1931年12月、同年5月~8月には、法政大学航空研究会の学生が、会長である百閒先生の計画でローマへの訪欧飛行に成功したばかりです。佐藤春夫は当時百閒先生とは法政大学の同僚でもあり、訪欧飛行に使われた飛行機「青年日本号」の名も、佐藤が作詞した校歌の一節からとられています。

 個人的に好きな一編は「羽化登仙」。おもちゃのヨーヨーについて書かれたものです。こんなに美しく的確なヨーヨーの描写、ある??(あるんだよ)という……。理知的に現象を描写しつつ、詩的な幻想にもつながっていく、ほんと文章が上手いな……と感心する一編です。
 と書きつつ、本文では「搖搖(えうえう)」と字が当てられているので、ほんとにヨーヨーのことなのかは憶測なのですが。でも昭和のその当時にもヨーヨーの流行があったそうなので(日本玩具博物館のHPより)きっとヨーヨー。

【貧乏五色揚】まだ「仲良くケンカしな」で済んでいたころのVS森田草平

 大人片傳/無恒債者無恒心/百鬼園新装/地獄の門/債鬼

 真ん中に位置するこの章には、借金話や高利貸しの話が集められています。
 「大人片傳」は副題の「続のんびりした話」が初出タイトル。これは同じ漱石門の先輩である森田草平が雑誌「中央公論」に書いた「のんびりした話」へのアンサーというか返信というか、同じ誌上で野球の裏表のごとくに相手とのエピソードを語ったり、反論したりした話です(森田の「のんびりした話」が昭和7年11月、百閒の「続のんびりした話」が同12月に掲載)。
 先に森田が書いた「のんびりした話」は、国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができます。

 比べてみるとまた事情がわかって面白い。ここで森田が語る入院と帽子のエピソードは、百閒も「百鬼園新装」で書いているのですが(田氏=森田)、入院している上に帽子を持っていかれる森田の書いた病院の場面が妙に明るくふんわりしているのに対して、百閒の方は同じ場面がどことなく陰鬱で言葉少ななのが面白いですね。

 「大人片傳」はちょっと漢文調というか、固めの文章を交えているのですが、森田の「のんびりした話」を読んだ後に再読すると、「あっ、この文章、先輩に対しておちょける態度で書いてんだな」という味わいになって面白かったです。

 森田草平とはこのあと法政大学騒動で袂を分かつことになるのですが(その話もいずれ「実説艸平紀」の時に……)、このころはまだ、それこそ「のんびりとした」身内プロレスだったんだなあ……と、先を知っていると感慨深いものがあります。

 また、時代風俗として面白いのは「地獄の門」。これは小説で、書かれている主人公も百間先生そのものではなく少し設定を変えています。当時の高利貸しの広告や、どのようにして金を借りるのかの一連の手続きが淡々と不穏に描かれていて、小説の筋を楽しむというよりは、知識的に関心を持って読みました。
 「債鬼」もまた小説で、百閒先生の高利貸したちとの付き合いを取材としたであろう、高利貸し目線の、ちょっと変わった話です。

【七草雑炊】初期の「こち亀」両さんを思わせるハードボイルド 

 フロックコート/素琴先生/蜻蛉玉/間抜けの実在に関する文献/百鬼園先生言行録/百鬼園先生言行餘録/梟林記

  最後にまとめられているのは、『百鬼園随筆』の中では比較的初期に書かれた文章です。発表年がわかっている中で一番古いのは「百鬼園先生言行録」(1928年)。随筆というよりは小説、しかし書かれているのは百閒先生本人をモデルにした「藤田百鬼園氏」の一日です。

 下宿にこもる百鬼園氏は、出かけなければいけない時間が迫っても、のんびりと過ごしたり、遊びに来た盲目の箏の師匠とお話したり……。なお、この「箏の師匠」は宮城道雄ではなく、百閒の知る何人かの同業の人を合わせて作った架空の人物だそうで(「琴書雅游録」『続百鬼園随筆』)、書かれている他の内容も完全なるフィクションでもノンフィクションでもない塩梅と思われます。

 この章の文章を読むと、なぜか私は初期の「こち亀」で両さんがまだハードボイルドしていた頃の作風を思い出します。まだ百間先生の随筆でのセルフイメージが固まり切っていない、「昔」の雰囲気……何言ってるか自分でもよくわからないですが。

 この話は掲載されたのが雑誌「新青年」だというのを踏まえて読むのも面白いですね。この原稿を買ってもらった時の話は百閒先生も後に「面影橋」(『つはぶきの花』旺文社文庫・等)などで語っていますが、原稿を買ったのは当時「新青年」編集長だった横溝正史だそうです。(対談「探偵作家はアマノジャク…探偵小説50年を語る」/「カッパまがじん」1977年3月号より)

 『百鬼園随筆』は、最後はこれまでの話とは空気の違う「梟林記」で締めくくられます。隣家の虐殺事件と、それを知らずいつも通りに過ごしていた自分と家族。少し『冥途』掲載の話と通じるような不穏さで、最後は印象的に終わります。


【参考】『百鬼園随筆』を読むには

 『百鬼園随筆』は現在は新潮文庫で読むことができます。

 何か有名人の紹介があったそうで、令和になって少なくとも2度増刷されているそうですよ(友達と私の見た奥付情報)。つまり今でもまだ書店店頭で手に入る確率が高い。令和3年末には増刷で平積みもされていました。ありがたい……。

 新潮文庫版の表紙は、芥川龍之介が出版社での待ち時間に原稿用紙の裏に落書きした百閒の似顔絵(?)です。よく考えたらこれを表紙に選ぶ胆力すごいな……(『続百鬼園随筆』も新潮文庫版が芥川画の表紙でありますが、こちらは現在は絶版のようです)

 古書流通では旺文社文庫福武文庫で出ています。


【今回参考にした本など】

・内田百閒『百鬼園随筆』(旺文社文庫)
・内田百閒『百鬼園随筆』(新潮文庫)
・森田草平『のんびりした話』(國文館)
・室生犀星「百鬼園随筆」(『日本文学研究資料新集22 内田百閒 夢と笑い』有精堂)
・竹内道之助「『百鬼園随筆』外傳」(平山三郎編『回想の百鬼園先生』旺文社文庫)
山田桃子「戦前期「随筆」の流行と内田百閒――『百鬼園随筆』刊行前後の問題を中心に――」J-STAGE
・『内田百閒集成24 百鬼園写真帖』(ちくま文庫)※百閒の年譜等は主にこちらを参考にしています。
・小田切進・編『日本近代文学年表』(小学館)


 次回は創作集『旅順入城式』をお送りします。


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