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振り向きざまの後悔(キャンプの話)

梅雨が明けたと同時に、うだるような、を通り過ぎて、身の危険を感じる日差し、暑さですね。
私が小中学生だったころは、8月の真ん中頃でも暑くて32~33℃位、35℃なんて、うわー!!となっていた気がします。

夏休みといえば、中学3年生頃まで毎年、2泊くらいで家族でキャンプに行っていました。
車で遠出、キャンプ場に到着したらまずはテントを張り、めったに食べられないカップラーメンを食べるのが楽しみでした。

大学生の頃も、サークルの合宿や打ち上げはキャンプ(野外活動センターでのBBQ)でした。郊外の大学だったので、居酒屋さんと同じくらいの金額で、昼間に体育館で球技大会、夜はキャンプ場で飯盒炊さんを選ぶような健康的なメンバーでした。
ひと夏、(開講期間よりもまじめに)ほぼ毎日大学に通い苦楽を共にし、パーカーがないと肌寒い晩夏に、夜通し虫にかまれながら将来のこと、サークルのことを語らったのは、思い出すとほほの片側がムズムズ上がってしまう、恥ずかしい一コマです。まだほほえましく思えるほど熟成されていないようです。

ただ、私は火おこしがしたかった。

調理器具が不足しがちな中、ポジション取りに成功したとして、謎の料理番長の指揮のもと野菜を切るか、下手したら、なんとなく調理場と洗い場を行ったり来たりするしかない選択肢がないことが面白くはなかった。

女子校で中高生時代を過ごしていたので、学園祭の什器搬入やら、いわゆる男女の役割分担を全部女子がやっていたこともあるが、家族で毎年キャンプに行っていたし、中学2年のころ、2泊3日、着火剤も炭も使わず3食火おこしから始める本格キャンプ合宿を経験していた私にしてみれば、キャンプといえば火の番だ。

新聞紙を丸めたものを芯にして枝を組んで火をつける。燃えてきたら徐々に太めの薪に火を移していき安定させる。

あの試行錯誤のプロセスを久しぶりにやりたいと思ったが、自動ででき合っている役割分担を超えて名乗り出るほどの勇気も根性もスキルもなかったのでした。今もありません。

中学2年の時のキャンプ合宿といえば、なかなかのものだったと、多少胸を張れると思う。
野外活動センターのキャンプ場ではあるが、山の斜面にテントを張り、食事は毎回支給された食材を調理しないとありつけない。
夜間に雨が降って、運の悪いテントが2,3棟ダメになっていたし、ウォークラリーのレクリエーションの前に6時起きで朝ご飯を作るところから始めるのは、お風呂、トイレはあったとはいえ、食べ盛り、育ち盛りのお年頃の女の子たち、よく頑張ったと思う。

最終日、併設されている研修センターのようなところで出されたカレーがめっちゃおいしかった。何もしなくても提供される食事、屋根と壁のある(クーラーもあった気がする)場所で食べられることのありがたさが身に染みた。
次の年から、自炊の回数が減り、1泊はその施設内で止まることになったと聞いた時には、甘ちゃんだな、と思うくらいには過酷だった。

合宿初日、それぞれのカマドで火おこしと格闘していた。カマドの両端には、ランダムに振り分けられた木材が積まれていて、それを使って薪を組んでいたが、前日が雨だったのか、なかなか教えられたように火が起こらず、火おこし担当同士がよそのかまどの様子を見に行ったり来たりしていた。
そんな中、細めの木片を最初に燃やすとうまくいきやすいよ、とYちゃんが教えてくれだした。何なら、自分のところの木片を分けてあげていた。
今思うとあの森の中は全体的にシイタケの裏ぐらいの湿り気がずっとあった気がする。

私はその夏、Yちゃんと仲が良かった。

山岸涼子の「日出処の天子」に盛り上がり、吉田秋生さんの「バナナフィッシュ」を貸してくれ、半狂乱で図書館で暴れまわっていた。

Yちゃんは、バスケットボールも上手だった。小学校時代、東京のミニバスに所属していたので、ちゃんとバスケットボールができた。
だから、非バスケットボール経験者しか参加できない球技大会では、ルールもへったくれもない女子同士のぶつかり合いにも、耐えていた。引っかかれたり、ルールを知らない故の本来はありえない行為の数々にも、仲良し勝ち組メンバーではなく、その他組のほうにバスケ経験者だからと一人組込まれても、真摯に頑張っていた。

そんなYちゃんときゃいきゃい出来ることにドキドキした。

さて、Yちゃんの教えが瞬く間に広がったことで、無事に各所の火は安定し、多少の生煮えがあるものの、みんな食事にありつけた。

何度目かの火おこし中だったと思う。私が育てていた火が順調に小枝から大きい薪に燃え移ってきたころだった。
後ろから声がかかった。
「ちょっと薪を分けてくれる?」
私は「ちょっとごめん!後でいい?」と言った
瞬間にぱっと振り返ると、
Yちゃんだった。
あっ、とおもった。
「いいよ、大丈夫」とYちゃんは離れていった。

私は、自分のかまどに夢中だった。大事だった。
だから、使うかもしれない薪を分けたくなかった。
同じように、Yちゃんのように分け隔てなくふるまいたかった。

あの振り向きざまの顔のこわばりと、Yちゃんのちょっと戸惑った声を私は今でも思い出す。そして、思う。
私の善意は、たかが知れている。



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